2016年7月2日土曜日

【第592回】『道草』(夏目漱石、青空文庫、1915年)

 漱石による長編作品は全て読んでいると思い込んでいたところ、先日の「100年目に出会う 夏目漱石」展でうっかりと読み飛ばしていたことに気づいた本作。養子に出されながら、養父の女性問題に伴う養父母の離婚が原因で生家に戻るあたりが、私小説風にも取れる。煮え切らない主人公夫妻の言動は、読んでいて苛立ちを感じる場面も多いものだが、人間の心の葛藤とは、割り切れない、しかし永続的に存在する何かなのかもしれない。

「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」
 (中略)
 彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息で斃れようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位置が手に入るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他島田の事も御常の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。(Kindle No. 3427)

 退廃的な言動とも読める。しかし、現実を生きるとは、一つの事象の背景にある多様な出来事の一つひとつを多様に解釈することではないか。自分にとって絶対的な意味づけを行うことと、それをオープンな状態にして他者からの忌憚のないフィードバックループを設計することが大事なのではないだろうか。

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」(Kindle No. 4278)

 そう、自分にとって悪いと判断しやすいものは、形を変えて何度となく訪れるものだ。このように考えると、縁起という言葉の意味を噛み締められるように思えるが、いかがだろうか。


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