2016年4月17日日曜日

【第566回】『行人【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1913年)

 後期三部作の第二作。今回もまた、ラストの手紙へと至るストーリーに唸らさせられる。

 自分はこういう烈しい言葉を背中に受けつつ、扉を閉めて、暗い階段の上に出た。(Kindle ver. No. 3713)

 心理をそのまま描写することは不可能である。したがって、ある心理が投影されていると推察される行動を私たちは描くことで、心理状態を明らかにしようとする。大げさに書き現わすのではなく、抑制の利いた筆致でありながら、「暗い階段の上に出た」という表現に主人公の心理が存分に表されている。

「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕がありがたいと思う刹那の顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか。そのほかにどんな神がある」(Kindle ver. No. 5612)

 真面目に生きようと、思いつめてしまう主人公の兄。彼の中には、他者を信じようとする心と、他者に猜疑心を持ってしまう心とが、相克しながら存在し合う。一方が他方を苦しめ続ける統合体として、自分自身が自分自身を信じられない状態に陥っている。多様な個性や可能性が存在する人間観というものが、現代における人間観であろう。しかし、それは手放しで称揚できるものではなく、統合する自分という存在がいることで初めて成り立つものである。ここに、可能性が解放された近代以降を生きる私たちの、豊かさとともに苦しさの萌芽が見出されるのである。


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