2016年4月23日土曜日

【第567回】『こころ【3回目】』(夏目漱石、青空文庫、1914年)

 西洋の文学には多数の登場人物が現れる。それに比べ、日本文学では登場人物が少ないようだ。とりわけ、本作では、先生・K・お嬢さん・奥さんの四名のみであり、その関係性によって多様な世界観が創り出されている。それによって、何度読んでも感じ入るポイントが異なっており、それが本作を名作と呼ばしめる所以ではなかろうか。

 私は式が済むとすぐ帰って裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。(Kindle No. 1284)

 これまで本作を読んだ際には特に印象に残った箇所ではなかった。今回、キャリアという文脈で考えると示唆的であると気づいた。大学を卒業するということは、形式的には外的な変化に過ぎないし、卒業したことで何かを得られるということはない。しかし、そうした時季的な節目があることによって、私たちは、過去を振り返り、将来を見透かそうとし、自身の内的な変化に目を向ける契機になる。外的キャリアと内的キャリアという二分法でキャリアを捉えることが多いが、二つに分けるということではなく、ある事象を二つの側面から捉えてみることが大事なのではないだろうか。

 私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。(Kindle No. 4485)

 先生が遺書として自分自身の過去を書き連ねることの意義を述べている箇所である。もちろん遺書という形式で過去を記すことは重要であろうが、多くの人にとってそれは人生の最終局面での極限的な出来事である。キャリアや人生という視野で捉えれば、たとえば人生の節目と呼ばれる局面で、自分自身のそれまでを振り返り、それ以降を見通すために、自分自身の過去を書いてみることもいいのかもしれない。


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