2017年11月3日金曜日

【第772回】『劇場』(又吉直樹、新潮社、2017年)

 芥川賞受賞作である『火花』も良かったが、個人的には本作の方がさらに良かった。前作では肩に力が入っているように見受けられる箇所がいくつかあったのに対して、本作ではそのような箇所が見当たらない。物語の展開を引っかかりがなくすらすらと読み進められ、二作目にして既に文体が完成の域に達しているかのようだ。

 帯にも書かれているので、いわゆる恋愛小説ということなのであろう。「僕」を主体にした物語展開であり、恋人との関係性が初期の時点から過去形で語られるため、その終焉を予期しながら読者は読み進めることとなる。

「そうじゃなくて、正直すぎて感情をどれかひとつに絞られへんねやと思う」(53頁)

 私たちは、他者から質問を受ける際に何らかの唯一の解答があるかのように思う習性があるのかもしれない。「なぜあなたは弊社を志望したのか?」と問われれば何らかの決定要因があるように考えるし、「AとBではどちらが好きか?」と尋ねられるとどちらも好きでも一方を選んでしまう。

 しかし、ある人物の中に、ある一時点における感情は、本来複数あるのであろう。なぜなら、自分を取り巻く事象は多様であり、それぞれに対する多様な感情がないまぜとなって今という自分の雰囲気を形成するからである。

 表現方法や程度の差はあれども、このような複雑な内面を表現することは他者に対する信頼が前提となる。良い面も悪い面も含めて、感情を共有できるということがお互いの信頼関係であり、そのプライベートの要素が大きくなれば恋愛関係を形成することになるのかもしれない。

 金もないのになぜ腹が減るのだろう。人の親から送られた食料を食べる情けない生きもの。子供の頃、こんなみじめな大人になるなんてこと想像もしていなかった。どこかで沙希の親に好かれたいと願う自分がいた。どちらかというと礼儀正しい方だし好かれるんじゃないかと期待していた。だが、大事な娘と暮らす甲斐性のない男を好きになる親など存在するはずがない。好きな仕事で生活したいなら、善人と思われようなんてことを望んではいけないのだ。恥を撒き散らして生きているのだから、みじめでいいのだ。みじめを標準として、笑って謝るべきだった。理屈ではわかっているけれど、それは僕にとって簡単なことではなかった。(71~72頁)

 終焉を予期しながら読むために、少し関係性がギクシャクするような箇所を読むと過剰に反応してしまう。こうした展開を創り出せるのも、小説家の力量なのであろう。

 デフォルメされてはいるが、過剰に描かれた「僕」の言動を通じて自分を内省させられる。ここまで自分は酷くないという安全地帯を用意されながら、同時に、その安心感の中で自身の言動に向き合わさせられるというような経験である。安心しながら軽くショックを受けるという不思議な感じを得られるのが小説を読む醍醐味の一つであろう。

「沙希ちゃん、セリフ間違えてるよ。帰ったら沙希ちゃんが待ってるから、俺は早く家に帰るねん。誰からの誘いも断ってな。一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。沙希ちゃんが元気な声で、『おかえり』っていうねん。言えるよな?大きな犬も俺の肩に飛びついてきて、ちょっと肩噛まれるけど、その時は痛み感じへんくらい俺も犬好きになってるから」(206頁)


 この最後のやり取りは切ない。誰かが悪いとか、あの言動が拙かったとか、そうした箇々別々の評論ではなく、お互いたお互いを尊重し合っていても結果的にうまくいかないことはあるのだろう。反省し、後悔している「僕」が、最後に別れをきれいに受け容れたのは、お互いの人間性に対する尊敬があったからなのではないか。


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