2015年10月17日土曜日

【第501回】『パンドラの匣』(太宰治、青空文庫、1946年)

 『火花』を読んでから、太宰を改めて読みたいと思っていた。面白いと思った小説の著者が影響を受けた著者の作品を読むというのはいいものだ。

 お父さんの居間のラジオの前に坐らされて、そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、或いは何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。(Kindle No. 129)

 太平洋戦争が終わる瞬間をどのように日本国民が迎えたのか。その受け止め方には、世代や立場によって様々であろうし、いたずらに普遍化しようとするつもりは毛頭ない。著者が、このような表現を取っていることに着目してみたい。

 ひとの行為にいちいち説明をつけるのが既に古い「思想」のあやまりではなかろうか。無理な説明は、しばしばウソのこじつけに終っている事が多い。理論の遊戯はもうたくさんだ。(Kindle No. 24)

 先の引用で「昔の僕」から変った結果として、「古い「思想」」に対する鋭い指摘が為されている。「理論の遊戯はもうたくさんだ」という気持ちを、当時の一部の人々は、心の底から思ったのではないだろうか、という推察をしてみたくなる。

 男児畢生危機一髪とやら。あたらしい男は、つねに危所に遊んで、そうして身軽く、くぐり抜け、すり抜けて飛んで行く。
 こうして考えてみると、秋もまた、わるくないようだ。少し肌寒くて、いい気持。(Kindle No. 1326)

 「古い「思想」」を否定してどのように生きるか。価値観の変容は、一直線に為されるものではなく、その過程において様々な要素が絡んでくるものだ。本書における主人公や彼を取り巻く人々にも様々な立場からの言動が見られる。そうした中で何となく心惹かれるのが、上記の引用箇所に見られる主人公の表現である。「危所」で「遊ぶ」という相反する文言が並置しているところが面白い。

 君、あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽なものだ。芭蕉がその晩年に「かるみ」というものを称えて、それを「わび」「さび」「しおり」などのはるか上位に置いたとか、中学校の福田和尚先生から教わったが、芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲するも能わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。(Kindle No. 1843)

 さらにすすんで「かるみ」へと至る。戦後における時代思潮として挙げられている一方で、二十一世紀の現代においてもなんとなく共感できるのだから、甚だ興味深い。

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