2015年10月18日日曜日

【第502回】『人間失格』(太宰治、青空文庫、1948年)

 読み終えてすぐに就寝して、寝ている間から、何だか気持ちが落ち着かない感じが続いている。頭で考えるというよりは、日頃は向かい合うことがほとんどない、心の深奥に直接的にアクセスしているような、決して気持ちが良いとは形容できない感覚である。

 お笑いコンビ「ピース」のボケ担当であり芥川賞作家でもある又吉直樹さんがどこかの媒体で書いていたように、本作には、読み手が共感できる部分が多いのであろう。潜在的な人間の有り様に触れる何かがあるからこそ、記憶を整理整頓する睡眠時に、脈絡なく様々なことを考えたり感じたり気づかされたりするのではないだろうか。

 本書をはじめて読んだのは高二の夏である。あまりに退廃的な本書を読んだことをきっかけにして、当時の私は大学受験を決意したのだから面白い。自堕落にモラトリアムを生きていた当時の自分にとって、危機感をおぼえさせたとも頭では考えられるが、それ以上の何かが本書にはあるようだ。再読した今、そのように思える。

 互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。(Kindle No. 234)

 言い訳がましい言い方となるが、私は厭世的な人間ではない(と少なくとも自分では考えている)。むしろ人間や物事の多様な側面のうち、前向きなものを選択的に掬いとってそこに意味を見出そうとすることが多いタイプだ(と認識している)。そうした世界観を有する身でも、この部分にははっとさせられるし、人間社会の一つの側面として、あまり見たくないものがあるのではないかと首肯せざるを得ない。特に、「清く明るくほがらかな不信」というアンビバレントな表現に着目したい。

 自分は、人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。(Kindle No. 738)

 我が意を得たりと思わず膝を叩きたくなる。面倒であるという感情もあるが、むしろ問題が起きている複数の関係性が織り成す柵に対して、期せずして自身で最後の決定的な一打を加えてしまうことが怖いのである。臆病な精神が、為すべきを為さざることによって、結果的に自然に悪化する現象を傍観したいという気持ちは、世の中の決して少ない人が共有しているのであろうか。

 世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。(Kindle No. 1120)

 日本社会では「空気を読む」ことが処世術の一つとして必要だと言われる。学校や企業といった日本社会の縮図としての組織を鑑みると、「空気を読む」ことの必要性はたしかにあるだろう。しかし、「空気を読む」だけでは、自分自身が何かを新たに為そうとする、さらに言えば他者を巻き込んで何かを成し遂げようとすることはできない。そうした時には、世間という無形で強力な存在を相手にするのではなく、個人の集合として捉えて、個々の人々に対応すること。個人を相手にすれば、自分自身の意志を明確に意識して提示することもできる。本書においては、この引用箇所は決して前向きに捉えられる文脈には配置されていないが、意図的にこのように拡大解釈することも小説を読む一つの醍醐味ではないだろうか。

 実に、珍しい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。(Kindle No. 1601)

 どうも私という人間は、自分自身で考えて、独力で決断し、我が道を、時にわがままに、生きていくタイプと思われているようだ。ここまで書くと書きすぎであるかもしれない(と信じている)が、多分にそうした傾向はあるのだろう。それでも、上記の引用箇所にはいたく共感していることをここで断言しておきたい。


0 件のコメント:

コメントを投稿