2016年7月3日日曜日

【第593回】『禅と日本文化【2回目】』(鈴木大拙、北川桃雄訳、岩波書店、1940年)

 著者の本を読むたびに、学問の意義について考えさせられる。複雑な事象を抽象化することが学問であり、そうして得られた学問的知見を具象化することで困難な現実に適用する。こうした作用が重要であると信じているのであるが、禅という考え方にその自明性を疑わせられる。

 真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。(7頁)

 抽象化された真理に対する疑念を持つ禅では、その代わりに体験が重視される。あまりに体験を重視する姿勢では、自分自身が体験・経験していないものに対して何も言えなくなってしまい逆効果であろう。しかし、頭で学んだ知識や知見によって何もかも言おうとするのではなく、体験することで得られた何かを述べるという節度を保った姿勢というものは大事なのではないか。

 日本人の芸術的天才が個々の事物をそれ自体で完全なるものとみると同時に、「一」に属する「多」の性質を体現するものとみる禅の方法に触発されたからだといった方がさらにもっともな説明ではないか。(20頁)

 いわゆる「多即一、一即多」という禅の考え方を説明している箇所である。多様なものの中に真実なる一つのものを見出すと共に、その一つの背景にある多様な可能性をも同時に視野に入れる。この多の視点と一の視点とを往還することが禅の姿勢なのである。

 一芸の熟達に必要なあらゆる実際的な技術や方法論的詳細の底には、自分のいわゆる「宇宙的無意識」に直接到達するある直覚が存し、各種芸術に属するこれらの諸直覚はすべてみな、個々無関連な、相互に無関係なものと見なすべきものではなく、一つの根本的な直覚から生ずるものと、見なすべきものだということである。(147頁)

 熟達に関しても「多即一、一即多」は成り立つ。一つのものを極めるということは、他のものへの熟達にも活きる。極めるというプロセスは、一つのものに対してだけではなく、他のものへも適用できることがある。多くのものを追いかけるという姿勢ではなく、一つのものにコミットして極めることの重要性に改めて気付かされた。


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