2015年9月23日水曜日

【第491回】『日本的霊性』(鈴木大拙、岩波書店、1972年)

 実家に帰ったり旅行に行くことを決める時に、その行き先や内容を決めることと同様に私にとって重要なことは、何の本を持っていくかである。今回、実家に五日間ほど帰る上で選んだのは著者の何冊かの本である。著者の一連の著作を読んだのは少し前のように記憶していたのであるが、五年も遡ることに気づいて驚き、また中身を読んで初読のような印象を受けて愕然とした。最初に読んだ際に感銘を受けたために書棚に陳列しているのであるから、ある程度は内容を記憶していると思ったのであるが、理解力や記憶力とはそれほど当てにならないものだ。

 まず、書名にもなっている「霊性」について、緒言において著者は以下のように精神と比較しながら説明を試みている。

 精神が話されるところ、それは必ず物質と何かの形態で対抗の勢いを示すようである、即ち精神はいつも二元的思想をそのうちに包んでいるのである。(15頁)

 霊性という文字はあまり使われていないようだが、これには精神とか、また普通に言う「心」の中に包みきれないものを含ませたいというのが、予の希望なのである。
 精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などいうことは免れない、それでは人間はどうしても生きていくわけにいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。(16頁)

 精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である。(17頁)

 二つのもののあいだに媒介者を入れないということである。何ものをももたないで、その身そのままで相手のふところの中に飛び込むというのが、日本精神の明きところであるが、霊性の領域においてもまたこれが話され得るのである。霊性は、実にこの明きものを最も根源的にはたらかしたところに現われ出るのである。(26頁)

 精神には二元論的な作用を生み出すことが含意されている。物質を反対概念に置くことで精神という意味合いが導き出される。こうした作用自体も、精神が為すものであり、精神と対立する物質という対立関係を括弧に括るような作用を生み出すのが霊性である、と著者はしているのであろう。このように考えれば、霊性とは、Aと非Aを比較によって対比的に分別する智識ではなく無分別智であり、直観的かつ全体的に把捉する作用であると理解できよう。

 こうした霊性が「日本的霊性」としてどのように顕現されたのか。

 仏教は単に日本化して日本的になった、仏教は日本のものだということで、話は済むのでない。自分の主張は、まず日本的霊性なるものを主体に置いて、その上に仏教を考えたいのである。(65頁)

 インドの空想と思惟力とがシナの平常道に融合して、それが日本へ来て日本で生長したのだから、いわばすべてご馳走のうまいところをみな吸いあげたと言ってよい。そうしてそれが一方では禅となり、他方では浄土系思想として現われ、念仏として受入れられた。(76頁)

 ここで著者が力説しているのは、仏教が日本的霊性を生み出したのではなく、日本的霊性というカタチのないものが仏教によって顕現されたということである。その上で、私たちが受容する際には、禅と念仏という形式に落ち着き、日本における文化を形成する土台となったのである。

 では日本的霊性とはどのような内容を意味するものなのか。

 超個の人(これを「超個己」と言っておく)が個己の一人一人であり、この一人一人が超個の人にほかならぬという自覚は、日本的霊性でのみ経験せられたのである。(87頁)

 日本的霊性は、個己の情性的方面に発動するというべきものがある。(中略)根源的というと何か抽象的な、一般的な、概念的な論理上の仮定または要請のように思われるが、それは物事が対象的に考えられてのことである。「根源的」が情性的で個己そのものであるとき、それ以上に具体的なものはないことになる。これが「一人一人」である。(88~89頁)

 霊性のはたらきの二方面は、知的直覚と意的直覚とであるというと、前者は感性と情性の上に働き、後者は意欲の上に働くと見ておきたい。(116頁)

 日本的霊性は、個別的であるとともに全体的であり、主体的であるとともに客体的であるとされている。使い古された言い方ではあるが、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という小学校でよく言われる標語の類いは、日本的霊性の為せる表現ではないかと邪推してしまう。組織における個人は、他と切り離された純然たる個人ではなく、主体と客体とが綯い交ぜとなった存在ということであろうか。

 こうした日本的霊性が具体的に現われたものの代表例として、一人の人物と一つの文学作品が挙げられている。

 特に親鸞聖人を取上げて日本的霊性に目覚めた最初の人であると言いたいのは、彼が流竄の身となって辺鄙と言われる北地へいって、そこで大地に親しんでいる人と起居を共にして、つぶさに大地の経験をみずからの身の上に味わったからである。日本的霊性なるものは、極めて具体的で現実的で個格的で「われ一人」的である。この事実が直覚せられて初めて日本的宗教意識の原理が確立するのである。(101~102頁)

 『平家』にはまだ平安期の女性文化の跡が十分に残っている。日本民族の感傷性ともいうべきものが、いかにもまざまざしく見える。が、その裏にはまたこれに対しての反省が加えられている。ここに日本的霊性の自覚を感ずる。霊性的生活は反省から始まる、反省のない霊性的生活はないのである。反省は否定である。今までは一途に、一気に、驀直に向前して更に眼を後方にめぐらさず、頭を左右に動かさなかったものが、これはと言って踏み止まって、自己を見、環境を見回すーーこれが反省である。即ち今までの向う見ずを否定することである。(152頁)

 親鸞と『平家物語』が日本的霊性がカタチとして現われたものとして提示されている。特に『平家物語』の部分で説明されている反省という概念について、留意して読んでいく必要があるだろう。


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