2015年9月27日日曜日

【第493回】『新版 禅とは何か』(鈴木大拙、角川書店、1954年)

 読み応え充分な、大家による禅の入門的講義録。

 今日では人間も人間と見ないで一個の機械と見てこれを分析する結果、概念が固定して来る傾向がある。これは人間に取って最も恐ろしい見方をするものであるということを考えてみねばならぬ。生きた人間は元来総合的である。(19頁)

 分別智は、物事を固定して捉え、その意味合いの多様性を捨象してしまう。それに対して、禅においては、物事の多様性を前提にし、その可変性に焦点を当てる。だからこそ、人間を総合的に見ることができる。

 知恵というものを、大体二つに分けて、一つの知恵は、学問の上でわれわれが学ぶ、他人から伝えられ、そしてそれを学習することのできる知恵、ーー(中略)しかしながら世の中にはそういう風にしては修得することのできないもう一つの知恵がある。これは人から教えられる、他から伝えられるというよりも、自分の心の中から自然に開発するところの知である。いわゆるこれを直覚の知恵と言ってもよろしい。(55~56頁)

 知に関する二つの捉え方は、形式知と暗黙知にそのまま該当すると考えるのは飛躍であろうか。私たちはともすると形式知にばかり目が向き、暗黙知を軽視しがちになってしまう。だからこそ、他者が持っているものをうらやみ、自分自身を卑下し過ぎてしまう。そうではなく、自分の内面から多様な暗黙知を紡ぎ出すことを、禅では重要視している。だからといって、徒に自分を肯定するだけでは固定的なものの見方となってしまい、禅的なものの見方とは相反する。自分自身を開発し変容するという実践を通じて、自分自身の中から生まれる知を重視するということが禅的な考え方なのではないだろうか。

 自分のためにするということは、決してそれだけでできることでなくして、人のためにするということがあって、初めて可能である。自利利他ということを仏教で言うが、それが両方に行なわれなければならぬということがよほど大事である。(76頁)

 ビジネスに置き換えるとしたら、顧客のためにすることが、翻って自分のために為すことに繋がるということであろうか。大事にしたい考え方である。

 機械を使うというと、人間が機械になるのでないことはいうまでもないが、人間はまた妙にそれに使われる。使うものに使われるというのが、人間社会間の原則であるらしい。人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう。近代はますますひどくなってその弊に堪えぬということになっている。
 この弊に陥らざらしめんため、宗教がある。宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出して行くことを教えている。宗教によってのみ、近代機械化の文明からのがれることができると私は思う。(100~101頁)

 哲学の用語を用いれば疎外ということが述べられている。ここで興味深いのは、人間疎外から逃れるための存在として宗教の意義が述べられている点である。特定の宗教を持たない人々は、宗教に対して構えてしまいがちであるが、こうした積極的な意義に関して着目することも重要なのであろう。

 自力というのは、自分が意識して、自分が努力する。他力は、この自分がする努力はもうこれ以上にできぬというところに働いて来る。他力は自力を尽くしたところに出て来る。(118頁)

 自力と他力。どちらが大事ということではなく、相補関係であることを意識したいものだ。

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