2016年3月13日日曜日

【第555回】『禅マインド ビギナーズ・マインド』(鈴木俊隆、松永太郎訳、サンガ、2010年)

 すらすらと読める読書も心地よいが、一文一文をじっくりと噛み締めながら読んで行きつ戻りつする読書というのも心地よい。本書は、著者の講演録であることもあり、後者を体験できるものであった。禅について学ぶというよりも、禅的体験を疑似体験できるような、また、日常の中でふと深呼吸できるような、趣深くかつカジュアルな一冊である。

 本当の目的は、ものごとをしっかりと、ありのままに見るということ、すべてを起こっては消えていくままにしておく、ということなのです。(42頁)

 禅の目的について著者は端的に上記のように述べる。門外漢としては、何かを会得したり、解脱したりといったものが禅の目的のように誤解してしまうのであるが、「ありのままに見る」という表現にハッとさせられる。私たちは、日常の中においてステレオタイプに自動的に何かを見てしまったり、自己の内面の投影として他者や現象を理解しようとしてしまう。そうではなく、起こっていることをありのままに見ることは存外難しく、だからこそ私たちにとって重要なことなのであろう。

 なにか特定のものを見ようとしないこと、なにか特別なものを達成しようとは思わないことです。あなたはすでに、その純粋性の中にすべてを持っているのです。(90頁)

 ありのままに見るためには、特定の先入見や仮説を持って事象を捉えようとしないことを意味する。そうした固定観念を持たない状態であればこそ、ものごとをありのままに見ることで様々なものと感得でき得る可能態を持っているということであろう。

 努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。ここでは、主体も客体もないのです。(50頁)

 ありのままにものごとを見るということは、必ずしも受け身でものごとに取り組むということを意味しているのではない。努力もまた、日常生活においては重要な要素となることを著者は認める。しかし興味深いのは、努力をしている自分という存在に対する認識をなくせとしている点である。忘我の努力と捉えれば、チクセントミハイを想起させるが、フロー理論との関係性が禅にはあるのではないだろうか。

 窮屈さの中で、自分の道を見つけること、それが修行の道です。(59頁)

 自分にとって厳しい状況について、苦しいという表現ではなく窮屈という表現を用いているところが面白いし納得的である。したがって、修行という概念のイメージとして、苦しさという言葉を用いるのではなく、窮屈という言葉を置いてみると見えてくる情景が異なってくる。

 もちろんなにか新しいことをするためには、過去を知らないといけない。それはかまわないのですが、ただ行ったことにとらわれなければいいのです。(105頁)

 努力を継続していくほど、新しいチャレンジに直面することはよくあるだろう。そうした時に、過去における事例やベストプラクティスを学ぼうとするものだ。著者は、こうした行動自体を否定するのではなく、そうしたものを学んだ後にとらわれないようにすることを指摘する。単純なアドバイスではあるが、行うことは必ずしも容易ではない。学べば学ぶほど、私たちはそのプロセスに価値を置きたくなるために、学んだ内容を過剰に評価し、その結果としてとらわれてしまうのである。なにかを学ぶことによるとらわれというリスクに自覚的でありたいものである。

 教えに固執したり、また師に執着したりするのは、大きな間違いです。師に会ったとたんに師を離れ、独立しなければなりません。師が必要なのは、自立するためです。師に執着しなければ、師はあなた方自身に帰っていく道を示すでしょう。(115頁)

 学ぶ内容への執着だけではなく、学びを促してくれた主体である師への執着をも戒める。師に執着しないということは、誰もが師であり、何からも学べるという学習のオープンネスにも繋がる。何かを絶対視するのではなく、また永続する相対化のプロセスに辟易とするのではなく、あらゆる存在からあらゆる学びを得られることに感謝をするという態度が求められるのではないだろうか。

 問題を解くには、問題の一部になること、問題と一つになることです。(124頁)

 主客がないまぜになった状態としてものごとをありのままに見るという禅的なアプローチで捉えれば、問題という客体に対して自己という主体が解決するという発想にはならない。ために、問題の中に含まれるもしくは問題を生み出す要素のひとつとしての自己という捉え方をすることが、結果的に「問題」の解決に繋がる。

 私たちは、目標へ到達しようとして、道の意味を失ってしまうのです。しかし私たちの道をしっかりと信じていれば、あなたはすでに悟りを得ているのです。道を信じるとき、悟りはそこにあります。(154頁)

 目標を過剰に意識し、そこへの到達に意識が傾注してしまうことは、手段の目的化へと堕してしまう。そうした自分で自分を苦しめるのではなく、道という形のない存在を信じ、ありのままを見ながら一つひとつの事象を大事にすることが重要なのではないか。


0 件のコメント:

コメントを投稿