2015年8月22日土曜日

【第475回】『宴のあと』(三島由紀夫、新潮社、1960年)

 小説の作品としての価値もさることながら、プライバシー違反に関する憲法学の判例として出版後における一連の出来事でも有名な本作。学部時代に、憲法の授業で取り上げられていたことは記憶している一方で、本作を読むのは今回がはじめてである。政治というテーマを掲げ、東京都知事選という現象を扱いながら、主要な登場人物が少数で構成されていることに読後に気づかされ、驚かされた。現象を描き出すのではなく、人物を描き出すことに注力して物語を創り上げている点は、著者の力量の為せるわざと言えるのではないだろうか。

 革新党も労組も、今まで三十万票までの選挙なら経験があったが、五百万票を相手にすると、作戦も立たず、途方に暮れているばかりだ、と山崎の言った言葉が、いよいよかづに確信を与え、選挙こそかづの天与の仕事だと考えるようになった。それはほとんど空虚を相手にして全精力を使うゲームであり、どこにも確証のないものへ向って不断に賭ける行為だった。いくら昂奮しても昂奮し足りないような気がし、いくら冷静になっても冷静になり足りないような気がしたが、そのどちらにも目安というものがなかった。かづが一つ免れているのは、「やりすぎたのではないか」という惧れだった。これには山崎も顔負けで、この革新党きっての選挙のヴェテランが、いつしかかづの何でも大ぶりなやり方に敬服するようになっていた。(127頁)

 智謀をめぐらし、他者を動かし、結果を出し、自分にとって重要な存在から認められること。プロジェクト・マネジメントを行なった経験のある方であれば、本書の主人公である福沢かづの抱く感情に共感できるのではないか。

 かづにとってこの一言はどんな打擲よりも怖ろしかった。彼女の目前に暗い大きな穴がひらいた。『離縁されたら……私は無縁仏になる』……そう思うとかづはどんな代償をも仕払う気持ちになった。(132頁)

 その一方で、信頼できるパートナーと一生を添い遂げ、死後にかけて永遠に落ち着ける場所をも求めている点が興味深い。独立心と依存心というアンビバレンスがあまりに大きいことは、人間としての魅力として他者から認識される一方で、自分自身を苦しめる要素にもなり得るのではないか。

 かづが追いやられる結論は、金が不足だったという嘆きよりも、自分の心情も野口の論理も無効に終ったという嘆きである。あの精魂こめた運動のあいだに、かづが一旦は信じた人間の涙や、微笑や、好意的な笑いや、汗や、肌の暖かみや、……そういうものもすべて無効に終ったという嘆きである。(190頁)

 多様な自分像を持ち、それぞれが強い個性を主張している人物の場合、挑戦している最中や、自身が納得のいく結果がでている際には、それが好もしいものとして現出する。しかし、結果が出なかったり挑戦が得られない時には、自分で自分を苦しめるのであろう。それは、なにも特別な存在だけではなく、程度の差はあれども、私たち全員に当てはまるのではないだろうか。人間はすべからく多様な自画像から構成される存在である。したがって、特に逆境の中にいる時ほど、多様な自分という存在に自覚的になり、それらを統合するという意識が重要なのではないだろうか。


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