2015年4月19日日曜日

【第433回】『金閣寺』(三島由紀夫、新潮社、1960年)

 小説は面白い。読み手の置かれている外的・内的な環境という文脈によって、その読み取り方は多様だ。本書を読むのは三度目であり、毎回、印象が異なる。一度目は鮮烈な読後感であり、二度目は案外であったのであるが、今回は興味深く読むことができた。かつ、以前に線を引いた箇所とは異なるところに感銘を受けており、本当に面白い。

 私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。父は田舎の素朴な僧侶で、語彙も乏しく、ただ「金閣ほど美しいものは此世にない」と私に教えた。私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦躁を覚えずにはいられなかった。美がたしかにそこに存在しているならば、私という存在は、美から疎外されたものなのだ。(28頁)

 本作は、1950年に起きた金閣寺放火事件を題材にしている。吃音をコンプレックスとして持っている主人公は、美に対してコンプレックスを持っており、その美の象徴として金閣が描かれている。美に対する憧憬とコンプレックスというアンビバレントな感情が、ここにくっきりと描き出されている。

 私は退らねばならなかった。不満が私の体を熱くしていた。自分のした不可解な悪の行為、その褒美にもらった煙草、それと知らずにそれを受けとる老師、……この一連の関係には、もっと劇的な、もっと痛烈なものがある筈だった。老師ともある人がそれに気づかぬことが、私をして老師を軽蔑させる又一つ大きな理由になった。(101頁)

 金閣の住職である老師に対しても、主人公はアンビバレントな感情を持っていたと言えるだろう。つまり、老師に何もかも自分自身を分かってもらうことで尊敬したいという感情と、万能ではないという軽蔑の感情とである。尊敬と軽蔑とが特定の他者に混在するというのは一見するとあまりないようにも思えるが、しかし、人間とは多様な有り様から成る存在である。したがって、特定の他者を単純に尊敬したり、軽蔑するということの方が少ないのではないだろうか。

 少年時代から、人に理解されぬということが唯一の矜りになっており、ものごとを理解させようとする表現の衝動に見舞われなかったのは、前にも述べたとおりだ。私は何ら斟酌なく自分を明晰たらしめようとしていたが、それが自己を理解したいという衝動から来ていたかどうか疑わしい。そういう衝動は人間の本性に従って、おのずから他人との間にかける橋ともなるからだ。金閣の美の与える酩酊が私の一部分を不透明にしており、この酩酊は他のあらゆる酩酊を私から奪っていたので、それに対抗するためには、別に私の意志によって明晰な部分を確保せねばならなかった。かくて余人は知らず私にとっては、明晰さこそ私の自己なのであり、その逆、つまり私が明晰な自己の持主だというのではなかった。(171~172頁)

 明晰であるという特質を自己が選択的に選んだということではなく、明晰でなければ自己を保つことができないという発想形態が述べられる。正直に白状すれば、分かるようで分からない部分ではあるが、不思議と魅了される箇所である。

 「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
 「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」
 「ないね。あとは狂気か死だよ」
 「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」(273頁)

 主人公と奇妙な相互依存関係にある柏木との対話である。認識こそが外界を如何様にも変えることができる作用であると強弁する柏木に対して、主人公は、内に秘めた金閣を燃やすという決意を踏まえて行為こそが重要だと主張する。主人公のそうした胸の内を見透かしているかのようにあえて認識の重要性を指摘する柏木と、主人公とのスリリングな対話だ。

 過去はわれわれを過去のほうへ引きずるばかりではない。過去の記憶の処々には、数こそ少ないが、強い鋼の発条があって、それに現在のわれわれが触れると、発条はたちまち伸びてわれわれを未来のほうへ弾き返すのである。(325頁)

 遂に金閣へ火をつける直前に、それまでの物語が主人公のモノローグであったという構成に著者はしている。過去が現在を規定するという側面とともに、現在の自分自身が過去の選択的に選ぶことによって未来を創り出すというアンビバレントな可能性をも現出していると言えよう。


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