2013年9月1日日曜日

【第195回】『豊饒の海(四)天人五衰』(三島由紀夫、新潮社、1971年)

 松枝清顕、飯沼勲、ジン・ジャンからの輪廻転生と思われる安永透を養子にもらい受けた本多は、自身と透との人間としての近さに驚くとともに恐れをなす。その人格の近さが、他者および状況を観察し眺めるという認識能力に現れている。

見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現れないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のように溶解して、もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきっとある筈だ。(19頁)

 見ることとは、本質に迫ることである。しかし、見ることは信じることとも言われるように、見る主体である自己の絶対性を信じることは、対象と自身との距離を保つことにもなる。見られる世界と、そこから屹立した自身という存在。自分だけは特別という考えが、他者との距離を取ることに繋がる。そうした客観的な認識は、時に感情のうごめきをもどこか他人事として把捉することになる。

何かを拒絶することは又、その拒絶のほうへ向って自分がいくらか譲歩することでもある。譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎すのは当然だろう。(199~200頁)

 他者とともに自身をも高い視点から眺めることで客観的に理解できるというのは一つの不遜だ。透による本多への不遜な行動を捉えられ、透は、本多と第三巻から交流のある慶子から手厳しいしっぺ返しを受けることになる。

松枝清顕は、思いもかけなかった恋の感情につかまれ、飯沼勲は使命に、ジン・ジャンは肉につかまれていました。あなたは一体何につかまれていたの?自分は人とはちがうという、何の根拠もない認識だけにでしょう?(300頁)

 客観的な認識というと聞こえは良いが、それは自己の内側からの主体的な動機で動くことではなく、操り人形にすぎない。この指摘を受けて抜け殻になった透とは対照的に、老いによる自身の死を覚悟した本多は、自身の客観的認識や観察による世界の把握という方式を手放すことへと至る。清顕の激情の相手であった綾倉聡子との再会を前にした本多の決意に凝縮される。

自分は今日はもう決して、人の肉の裏に骸骨を見るようなことはすまい。それはただ観念の想である。あるがままを見、あるがままを心に刻もう。これが自分のこの世で最後のたのしみでもあり、つとめでもある。今日で心ゆくばかり見ることもおしまいだから、ただ見よう。目に映るものはすべて虚心に見よう(321頁)

 死という終わりを意識することで始まることがある。本多にとっては輪廻転生を繰り返す主体を眺めるという観察者からの脱却を意味するのであろう。輪廻転生をはじめとした摂理を客観的に把握することは不可能なのだろう。それを読者にも投げかけるため、三島は最後にして大きな謎を残す。門跡となった綾倉聡子の口から、松枝清顕の存在自体を否定させるのである。

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼び覚まそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」
 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
 「それも心々ですさかい」(341頁)

 作品自体の存在をくつがえすような謎とともに『豊饒の海』は完結し、三島の人生もまた完結した。本書は、文字通り、三島にとってのライフワークである。

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