2014年5月11日日曜日

【第284回】『彼岸過迄』(夏目漱石、青空文庫、1912年)

 石垣と竹富を訪れた今年の一月に、前期三部作を読んだ。後期三部作をいつ読もうかと思案していたところゴールデンウィークが適切であると思った。単純に、まとまった時間を設けることができるからである。

 漱石の作品のはじまりは面白い。本作もまた、「石に漱ぎ流れに枕す」を地でいく毒のあるウィットに富んだ書き出しである。

 自分はまた自分の作物を新しい新しいと吹聴する事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。(Kindle ver. No. 31)

 たとえを用いながらも、批評精神と作家としての矜持が窺い知れる表現である。芭蕉に言わせれば不易流行ということであろうか。

 敬太郎は手紙を畳んで机の抽出へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入の都度、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。(Kindle ver. No. 598)

 連絡なく寮を出た森本が置いていった杖の描写であり、その杖を描写することによって、敬太郎の森本への気持ちが表れているようである。そしてこの杖が、敬太郎のその後の物語へと誘うことになる。

 彼は頬の上に一滴の雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、格好さえ分らない大きな暗いものを見つめている間に、今にも降り出すだろうという懸念をどこかへ失なって、こんな落ちついた空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない真似を好んでやるのだろうと偶然考えた。(Kindle ver. No. 2214)

 自分自身が内包する不安な気持ちが外に投影されている。詩的な情景であるとともに、どこか感傷的な情景でもある。

 眼が覚めると、自分の住み慣れた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎にはまったく変に思われた。昨日の出来事はすべて本当のようでもあった。また纏まりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴っていた。それよりか、酔った気分が世の中に充ち充ちていたという感じが一番強かった。(中略)最もこの気分に充ちて活躍したものは竹の洋杖であった。(Kindle ver. No. 2305)

 夢だったのか、現実的だったのか、という感覚を持つことはあるだろう。そうした感覚を「本当の夢」と形容し、さらには「酔った気分で町の中に活動した」という表現もすごい。ここでもまた、先述した洋杖がキーアイテムとして出てくる。

 僕は茶の湯をやれば静かな心持になり、骨董を捻くれば寂びた心持になる。そのほか寄席、芝居、相撲、すべてその時々の心持になれる。その結果あまり眼前の事物に心を奪われ過ぎるので、自然に己なき空疎な感に打たれざるを得ない。だからこんな超然生活を営んで強いて自我を押し立てようとするのである。(Kindle ver. No. 5003)

 自我とはなにか。漱石が追求したテーマがここに表れる。なにか固定的な対象があるとその文脈に没入してしまうため、そうした具体的な文脈から逃れようと超然的な生活を強いることで自我を紡ぎ出そうとする。自我を自分の中から出そうとする姿勢は、現代の私たちにも通ずる内面描写と言えるのではないだろうか。

 こんなつまらない話を一々書く面倒を厭わなくなったのも、つまりは考えずに観るからではないでしょうか。考えずに観るのが、今の僕には一番楽だと思います。(Kindle ver. No. 5478)

 考えずに観る。余計な思考や分別を入れずにただただ観ること。そこに意義や背景を見出すのではなく、ただ観ること。こうしたことが大事な状況も、生きていればあるものだ。


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