2014年2月2日日曜日

【第247回】『門』(夏目漱石、青空文庫、1911年)

 前期三部作の最後の作品。『それから』の場合と同様、以下における引用箇所では、私が現代仮名遣いに変えて用いている。

 二人の間には諦めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影響はほとんど射さないように見えた。(中略) 彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦らめて、ただ二人手を携えて行く気になった。(Kindle No. 563)

 宗助と御米の夫婦は仲睦まじく、宗助は安定した職業に従事し、慎ましいながらも穏やかな生活を送っている。傍から見れば望ましい夫婦に対して、およそ似つかわしくない暗い表現で描写されている点に注目するべきだろう。この部分で漱石は、その後の物語への展開への示唆をするだけではなく、他者から見える客観的な像と当事者から見える主観的な像との対象をも指摘しているのではないか。

 次に、『論語』に関する漱石の二箇所の記述が面白いので紹介したい。

 寝る時、着物を脱いで、寝巻の上に、絞りの兵児帯をぐるぐる巻きつけながら、 「今夜は久し振りに論語を読んだ」と云った。 「論語に何かあって」と御米が聞き返したら、宗助は、 「いや何にもない」と答えた。(Kindle No. 1079)

 その間に主人は昨夜行った料理屋で逢ったとか云って妙な芸者の話をした。この芸者はポケット論語が好きで、汽車へ乗ったり遊びに行ったりするときは、いつでもそれを懐にして出るそうであった。(Kindle No. 3017)

 前者は宗助と御米との何気ない会話であり、後者は宗助と大家との会話である。どちらものんびりとした情景であるが、後者は、宗助にとって深刻な話を聞かされ結果的に精神修養および逗留にまで至るという状況の直前である。そうした厳しい場面を描写するためにも対照的に長閑なシーンを直前に持ってきたのであろうが、その題材として論語を芸者に語らせるという漱石の着想は大変面白い。

 ようやく家へ辿り着いた時、彼は例のような御米と、例のような小六と、それから例のような茶の間と座敷と洋灯と箪笥を見て、自分だけが例にない状態の下に、この四五時間を暮していたのだという自覚を深くした。(Kindle No. 3302)

 ここでも心的風景の対比が用いられている。先述した芸者による論語の話から宗助の苦しい過去を呼び起こさせる話へ、その話を自分だけが聞いてから何も知らない妻と弟のもとに帰宅する。静から動へと移行させられた自分に対して、静のままの家族との対比により、自分自身の内側に籠るという感覚は共感できる。

 宗助には宜道の意味がよく解らなかった。彼はこの生若い青い顔をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低能児であるかのごとき心持を起した。彼の慢心は京都以来すでに銷磨し尽していた。彼は平凡を分として、今日まで生きて来た。聞達ほど彼の心に遠いものはなかった。彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分より遥かに無力無能な赤子であると、さらに自分を認めざるを得なくなった。彼に取っては新らしい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。(Kindle No. 3549)

 自分自身を見つめ直し、新しい自分の可能性を見出す時には、自分自身が無能であることを心から自覚することだ。古くはソクラテスが述べたとされる無知の知である。新しい内的自己の発見は単に喜ばしいものではない。自分自身のありようとも言える自尊心の完全な否定でもあり苦しいことでもある。喜びと苦しみ、清濁を併せて呑み込む度量が無知の知には求められるのであろう。

 御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、 「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、 「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。(Kindle No. 4007)


 本書のラストシーンでも対比が用いられている。宗助の給与が上がって生活が楽になり、春を迎えられることを喜ぶ御米に対して、宗助はそれを肯定しながらも苦しいことも起こり得ることを暗示する。鎌倉での宜道との対話や自己修練の結果として新しい自分自身をおぼろげながら見つけても、全てが肯定的になるということはないことを漱石は最後まで述べている。そこには、安易な表面的解決やポジティヴ思考への懸念とともに、半永久的な自己への洞察の継続の重要性が示されているように私には思えるが、どうだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿