2014年2月1日土曜日

【第246回】『それから』(夏目漱石、青空文庫、1909年)

 漱石のいわゆる前期三部作の第二作目である。以下における引用箇所では、私が現代仮名遣いに変えて用いていることを予めご了承いただきたい。

 彼は生の欲望と死の圧迫の間に、わが身を想像して、未練に両方に往ったり来たりする苦悶を心に描き出しながらじっと坐っていると、背中一面の皮が毛穴ごとにむずむずして殆んど堪らなくなる。(Kindle No. 913)

 大学を出て三十歳を過ぎても定職を持たず、親から金を無心して生きる代助。生と死をリアルに感じられず観念的にしか捉えられない代助を見ていると、働くという行為に生死を感受するなにかがあることがあるのかもしれない、と思えてくる。働くこと自体が生きる糧を得るためのものであり、自分自身の生きる意味を見出すためのものともなり得るという両義性を有しているのではなかろうか。

 振り返って見ると、後の方に姉と兄と父がかたまっていた。自分も後戻りをして、世間並にならなければならないと感じた。家を出るとき、嫂から無心を断られるだろうとは気遣った。けれどもそれが為に、大いに働いて、自から金を取らねばならぬという決心は決して起し得なかった。代助はこの事件をそれほど重くは見ていなかったのである。(Kindle No. 2225)

 リアリティの欠落は、意志や目的意識の欠落の為せる業なのであろう。金を借りようと兄および嫂のところを訪ねる一方で、その目的が満たされなくても彼は泰然としている。借りることができなくても、それを得るための代替策を講じるどころか、卒然として何らのダメージを受けていないのである。

 彼の考えによると、人間はある目的を以て、生まれたものではなかった。これと反対に、生まれた人間に、始めてある目的ができてくるのであった。最初から客観的にある目的を拵えて、それを人間に付着するのは、その人間の自由な活動を、既に生まれる時に奪ったと同じことになる。だから人間の目的は、生まれた本人が、本人自身に作ったものでなければならない。けれども、いかな本人でも、これを随意に作ることはできない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向って発表したと同様だからである。(Kindle No. 3437)

 代助はなぜ目的意識を持って生きていないのか。それは、目的とは生まれついて持ち合わせているものではなく、後天的に得られるものだからであるという信念を彼が持っているからであると漱石はしている。目的があればそれに向けて行動することはできるのであろうが、それがないのであればアンニュイに生きるという徹底した考えが彼にはある。しかし、果たしてそれだけなのであろうか。

 彼は父と違って、当初からある計画を拵えて、自然をその計画通りに強いる古風な人ではなかった。彼は自然を以て人間の拵えた全ての計画よりも偉大なものと信じていたからである。(Kindle No. 4494)

 こうして、代助の信念は、自分自身のものというよりも、彼の父をはじめとした封建的な価値観を持つ世代への精神的な反発から生まれていることが分かる。国や社会が規定する価値観に基づいて世間の規範が求める目的に向けて生きることを彼は否定する。しかし、それはあくまで旧世代に対するアンチテーゼにすぎず、目的意識を持つべきであるという価値観は共有していると言えるのではないか。なぜなら、自然に後天的に生じる目的意識を重視している時点で、目的意識を持つことを是として捉えているからである。こうした受け身の姿勢やアンチテーゼの状態に代助を留めているものは一体なんなのか。

 多くの場合に於いて、英雄とはその時代に極めて大切な人ということで、名前だけは偉そうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だからその大切な時期を通り越すと、世間はその資格をだんだん奪いにかかる。(Kindle No. 4975)

 以前の時代における価値観で評価されていた人物が、新しい時代では否定される。たとえば、日露戦争での活躍で尊敬されていた人物が、戦争のない時代では凡人にすぎないと著者は代助に語らせている。価値観の変化のスピードの速さを踏まえて、いま評価されることを否定しようとして生きることを代助は自身の処世術としている。しかし、将来への希望を捨てることは、現在のリアリティを欠乏させる危険性を内包する。友人の妻との恋愛に傾倒する代助の行為には、リアリティを無視しきれず、反対にリアリティに溺れる行為のようにも受け取れる。

 価値観の変化のスピードが速く、近い将来とともに現在のリアリティを無視しようとし、反対に危険なリアリティに耽溺する。これらの要素を抽出してみると、1900年代初頭の日本ではなく、2000年代初頭の現代の日本社会をも漱石があたかも述べているように思える。家庭であれ、私企業であれ、公的組織であれ、個人としてであれ、いずれかの形式で働くという行為をしていないと、リアリティの欠落および過剰なリアリティへの希求という陥穽に陥る危険性がある。こうしたことを漱石は示唆しているのではないだろうか。

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