2013年10月20日日曜日

【第213回】『悩む力』(姜尚中、集英社、2008年)

 タイトルにある「悩む」という行為は、私たちの日常においてはネガティヴに捉えられることが多い。悩み過ぎはたしかによくないだろう。しかし、悩むことをポジティヴに捉えること、すなわち生きる意味を見出すものとして肯定的に捉えてみはどうだろうか。本書は、このような考え方のもとに、現代における悩むことの意義を論じている。

 ウェーバーは西洋近代文明の根本原理を「合理化」に置き、それによって人間の社会が解体され、個人がむき出しになり、価値観や知のあり方が分化していく過程を解き明かしました。それは、漱石が描いている世界と同じく、文明が進むほどに、人間が救いがたく孤立していくことを示していたのです。(17頁)

 ウェーバーと漱石、西洋と東洋の知の巨人が異口同音に描いた通り、西洋近代文明は私たちに孤独をもたらした。現代を生きる私たちが、その存在自体を否定することは不毛なのであろう。合理化とは分けることである。近代化によって、知の分化、人の分化が進み、そのスピードは上がりこそすれ、下がりはしない。こうした社会において、孤立を前提にした上でいかに生きるか、が私たちに問われているのである。

 こうした前提に立った上で、著者が述べているポイントのうち、ここでは、私、知、相互承認という三つに焦点を当てたい。まず「私」という近代合理主義によって生まれた概念をどのように捉えるか。

 私は、自我というものは他者との「相互承認」の産物だと言いたいのです。そして、もっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要があるということです。 他者と相互に承認しあわない一方的な自我はありえないというのが、私のいまの実感です。もっと言えば、他者を排除した自我というものもありえないのです。(40頁)

 「私」というものを考える際に、他者や世界に対して閉じたものは自己チューと呼ばれるものであると著者は対比的に述べている。それに対して、「私」を徹底的に考える過程で、他者や世界に対してオープンマインドであることを通じて、翻って自分を見つけ出すことができると著者はしている。これを、漱石の小説のテーマとして散見される自我であると著者は指摘する。

 まじめに悩み、まじめに他者と向かいあう。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか。とにかく自我の悩みの底を「まじめ」に掘って、掘って、掘り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着けると思うのです。(42頁)

 むろん、自分に向き合うということは辛い作業である。見たくもない現実や考え方に直面することもあるだろう。まして、そうしたありのままの自分をもって他者に開くということは恐ろしくもある。自分の有り様が受け容れられない時には、あたかも人格を否定されたかのように思えることもあるに違いない。しかし、そうであったとしても、悩みながら、他者に開いた上でまじめに自分に向き合うことで他者と出会う地点へとたどり着ける。これが著者の私たちへの助言である。

 次に、知について。

 人間の知性というのは、本来、学識、教養といった要素に加えて、協調性や道徳観といった要素を併せ持った総合的なものを指すのでしょう。しかし、本来そうあるべきだった人間の知性は、どんどん分割されていきました。それは科学技術の発達と密接に関係しています。分割されて、ある部分ばかりが肥大していった結果、現在のようになってしまったのです。(69頁)

 本来的な意味での知とは、自分自身が豊かなリベラルアーツを持つことに加えて、「私」のところでも述べたような、他者とのすり合せが求められる。しかし、 知が分化する過程で、他者と分断され、個人に閉じたものへとなりがちであるのが現代である。私たちは知に対してどのように向き合うべきなのだろうか。

 人類学者のレヴィ=ストロースが言う「ブリコラージュ」的な知の可能性を探ってみることです。ブリコラージュとは「器用仕事」とも訳されますが、目前にあるありあわせのもので、必要な何かを生み出す作業のことです。私はそれを拡大解釈して、中世で言うクラフト的な熟練、あるいは身体感覚を通した知のあり方にまで押し広げてはどうかと考えています。(78頁)

 新しい何かを獲得する、最新の情報を入手する、といった行為もたしかに大事であろう。しかし、それでは際限がないし、分化したものを分化した状態で吸収しても自分のものにはならない。目の前にあるもの、自分が持っているものを統合することで何かを生み出すこと。こうしたスループットやアウトプットを行うことで、翻って良質なインプットが引き起こされて、知が涵養される。

 私たちの社会は、いますべての境界が抜け落ちたような状態になっていて、そこに厖大な情報が漂っています。たしかに、人間の脳というのは際限がなく、放置しておくと限りなく広がって、得手勝手にボーダーレスな世界を作り出していきます。 しかし、現実の肉体や感覚には限界があります。だから、反対に、自分の世界を広げるのではなく、適度な形で限定していく。その場合でも、世界を閉じるのではなく、、開きつつ、自分の身の丈に合わせてサイズを限定していく。そして、その世界にあるものについては、ほぼ知悉できているというような「知」のあり方ーー。(79~80頁)

 情報の入手ソースが広がり、量が増えている現代において、それをどのように最適化するか、は非常に重要な問題である。それに対して、身体という有限なメディアを活用することで、自身の中で知を身近なものとして涵養する。さらには、身体メディアを用いることで、知を開き、他者と交流をすることで知の相互交渉を試みる。こうした知を相互に育んでいくことが現代の私たちには求められているのではないだろうか。

 最後に相互承認について。

 他者を承認することは、自分を曲げることではありません。自分が相手を承認して、自分も相手に承認される。そこからもらった力で、私は私として生きていけるようになったと思います。私が私であることの意味が確信できたと思います。 そして、私が私として生きていく意味を確信したら、心が開けてきました。フランクルが言っていることに近いのですが、私は意味を確信している人はうつにならないと思っています。だから、悩むこと大いにけっこうで、確信できるまで大いに悩んだらいいのです。(160頁)

 自分を開くことで他者を受け容れる。自分を開いたからといって、すべての他者が自分を受け容れていくわけではない。自分は開いているのに、他者は開いてくれないという状況は辛いこともあるだろう。しかし、その中の一部の他者と相互に開き合うこと、換言すれば、相互に承認し合える関係性を築けることで、自分の生きる意味が見えてくる。そうすることが自身の心身の健康状態を保つことができ、加えて、その過程における悩みや苦労を著者は肯定的に捉えるのである。

 自分自身に「私はなぜ働いているのか」と問うてみることがあります。すると、いろいろ考えた挙げ句、他者からのアテンションを求めているから、という答えが返ってきます。お金は必要ですし、地位や名誉はいらないと言ったら嘘ですが、やはり、他者からのアテンションが欲しいのです。それによって、社会の中にいる自分を再確認できるし、自分はこれでいいのだという安心感が得られる。そして、自信にもつながっているような気がします。 人間というのは、「自分が自分として生きるために働く」のです。「自分が社会の中で生きていていい」という実感を持つためには、やはり働くしかないのです。(128頁)

 相互承認をもとに生きていく意味を見出していく。そのためには、私たちの生活の中の大半を占める働くという時間をどのように過ごすか、が大事になってくる。大きなことを企てたり実行することは必ずしも必要ではない。目の前の同僚、目の前のお客さま、こうした個別具体的な存在に価値を提供し、承認されること。こうした積み重ねが組織を活性化し、社会をより良いものへと連鎖させる起点になるのではないだろうか。

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