2013年9月15日日曜日

【第200回】『人間の建設』(小林秀雄・岡潔、新潮社、2010年)

 数学者と哲学者、二人の異分野における知の巨人の対談である。珠玉の言葉の背景に見え隠れするものは、知に対する熱情、人間に対する愛情である。

 【岡】人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。(10頁)

 難しいものを理解しようとする行為はチャレンジングであり、ために、学問とは本来は面白いものである。何の為に学ぶのか、と問う人がいるが、面白いからとしか答えようがないものだ。学問の本質とは外発的・結果志向的なものではなく、内発的・過程志向的なものだからである。ただし私自身は岡の見解とは少しく異なり、何らかの領域に興味を持つきっかけが、試験という外発的な誘因であることに反対する気持ちはない。しかし、いつまでも他者が設けた枠組みの中でしか思考・行動できないのであれば、それは他者や社会にとって建設的ななにかを提供することは難しいだろう。なぜなら試験で求められる静的な知識では、動的に変化する環境に適応することは難解だからである。

 ではなぜ学問に興味を持てない人が多いのか。無明という仏教の概念を用いて、岡は説明を試みている。

 【岡】人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。(中略) 人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。(14~15頁)

 おそらく岡は、常に無明を押さえるということに焦点を置いてこの発言をしたのではないだろう。およそ普通の人間が、一日中無明を押さえるということはなかなか想像できない。しかし、自分が注力する学問においては、外発的な誘因ではなく、内発的な動因に基づいて、無明の妨害を排除することが重要だろう。常にはできないからといって諦める必要はなく、ある時間・条件においてできることであれば、それを試みてみることだ。

 学問をたのしむことはあくまで個人的な作用である。個人における行為に留まるのであれば、究極的には、無明を押さえられようが、押さえられなかろうが、どちらでも構わないだろう。しかし、無明のなせる業は、社会に対しても悪影響を及ぼすと岡は指摘する。

 【岡】世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代になると、物のほんとうのよさがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐ実社会と結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。(33頁)

 知的探求がない人間は、即物的なものに価値を見出し、そうしたものを得ようとすることを目指す。そうした社会は功利主義的であると岡は述べる。TOEICの点数の高さを競い合い、年収の多寡を気にし、他人からの承認をかたちにすることを求める社会。そこには、海外の文献を渉猟したり異文化の方々との触れ合いをたのしみ、職務を少しずつ工夫して手応えを得て行くたのしみ、多様な他者との関わりにより多様な自己を見出すたのしさを疎外する社会である。学問を重視しない社会の是非は、問うまでもないだろう。

 さらに、学問という深い本質的な学びのない、浅薄で表面的な情報による処理じたいが積極的な害悪を為すと岡は指摘する。

 【岡】人の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのですが、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになるのですね。主張のない科学に勝手な主張を入れる。ほんとうにそうです。人には野蛮な一面がまじっているのです。(67頁)

 意図的に情報を操作しようとするのではなく、無意識に情報を曲解して現実に適用することの方が恐ろしい。悪であるという自覚があれば、人間である以上、躊躇する精神作用が働くものであるが、悪であることに無自覚であれば、その行為は際限なく続く。権威者のお墨付きが得られているという保証があると思えるからこそ、人は、目の前の被験者の苦しんでいる現実を無視して、電気ショックを被験者に与え続ける。数十年前の心理学の有名な実験から、残念ながらこの現実は明らかなのである。学問の本質への無理解は、害悪の萌芽を意味するとも言えよう。

 無明という個人のなす作用を否定することで、個人ではなく全体への意識を重視することに繋がる。

 【岡】一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。 【小林】なるほど。おもしろいことだな。 【岡】私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかと言われる意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。(104~105頁)

 ここで岡が述べる全体性には二つの含意があるのだろう。すなわち、個人の中における全体性と、全体性の中における個人である。前者は一人の個人の中に多様な可能性や関係性が存在し、それぞれの差異が一人のゆたかな人格というかたちで統合されている様を表している。後者は、多様な個々人の集まりが集団としての強さを発揮する一方で、一つの組織としての特徴を生み出すということを意味しているのであろう。こうした状況を「一」という数字で表すところに、岡の数学者としての深みが現れている。

 「一」の理想形態とはなにか。岡はそれを「のどか」と形容する。

 【岡】のどかというものは、これが平和の内容だろうと思いますが、自他の別なく、時間の観念がない状態でしょう。それは何かというと、情緒なのです。だから時間、空間が最初にあるというキリスト教などの説明の仕方ではわかりませんが、情緒が最初に育つのです。自他の別もないのに、親子の情というものがあり得る。それが情緒の理想なんです。矛盾でなく、初めにちゃんとあるのです。そういうのを情緒と言っている。私の世界観は、つまり最初に情緒ができるということです。(109頁)

 全体性とは自他の区別がないことであると岡はここで断言する。人は、ともすると自他を切り分け、自己中心的に考えてしまう。これが先述した無明であり、深い学びをたのしめなくなる原因である。

 こうした情緒を育むためには、理想状態を言葉にする作用が鍵となる。

 【小林】私はイデーがあって、イデーに合う言葉を拾うわけではないのです。ヒョッと言葉が出て来て、その言葉が子供を生むんです。そうすると文章になっていく。文士はみんな、そういうやりかたをしているだろうと私は思いますがね。(123頁)

 理想状態とは心の中に浮かぶ方向性である。方向性がほのかに見えればそれを自ずから把捉することを意味しない。方向性を具体的に顕在化する必要があるのである。そのために、言葉を用いて、文章を紡いでいく。文章を作り上げて行く過程で、翻って自分の心の中に思い描いていた心象風景をはじめて見ることができるのである。

 こうしたアウトプットをするためには何が必要か。小林は、良質なインプットがその前提にあることを述べる。

 【小林】古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としてこの方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。(145~146頁)

 ここでは時間軸における素読の重要性を説いているが、同時に空間軸における素読の重要性も挙げられるだろう。すなわち、日本語訳された書籍を読むのではなく、もとの英語で書かれた原著を読むということである。言語とは思考方法や感情表現が体現化されたものであり、違う言語に訳された時点で内容のいくばくかは零れ落ちるものだ。空間的・時間的なオリジナルである書籍に当たるか、そうした限界を踏まえた上で解説本・翻訳本に当たることが重要である。


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