2013年8月11日日曜日

【第187回】『老子』(金谷治、講談社、1997年)

 孔孟に対する老荘。儒教という高度に倫理を重んじる孔孟と比べて、道を重んじ自然と調和する老荘は人間的なにおいのする思想である。では、老子の考えの根幹を為すと言われる「道」とはなにか。

 これこそが理想的な「道」だといって人に示すことのできるような「道」は、一定不変の真実の「道」ではない。これこそが確かな「名」だといって言いあらわすことのできるような「名」は、一定不変の真実の「名」ではない。 「名」としてあらわせないところに真実の「名」はひそみ、そこに真実の「道」があって、それこそが、天と地との生まれ出てくる唯一の始源である。(1 道の道とすべきは)

 道という言葉を私たちが聞くと、あるべき目的地があり、そこへと至る最適解としてのプロセスということを想起し易い。しかし老子によれば、道は変化するものであり、目に見えて同定できるものではない。ではどのように道を見出すのか。

 やってくるのを前から迎えてみてもその先頭はみえず、さきへ行くのをあとからついていっても、その後ろ姿はみえない。古いむかしの本来の「道」の立場をしっかりと守って、それによって現在の目の前のものごとをとりしきっていけば、古いそもそもの始原を知ることができる。それを「道の中心」とよぶのだ。(14 これを視れども見えず)

 道とはなにかと観念的に夢想するのではなく、道を意識しながら日々の実践の中でベストを尽くすことを老子は重視している。唯一の始原を目指しながら行動することで変化が生まれる。その変化をたのしむこと。そのためには、世界を成り立たせる多様な要素の相互関係に意識を向けることが重要である。

 世間のものごとはすべて相対的で依存しあった関係にあるのだ。(2 天下みな美の美たるを知るも)

 老子は相互依存関係に着目することを示唆する。美しくないものがあるから美しいものを見出せるのであって、究極の美というようなイデアが他と隔絶して屹立するわけではないのである。こうした考え方を基にしながら、自身への向き合い方、それに基づいた日々の行動、他者への対応という三点についてヒントを述べている。

 第一に、自身への向き合い方について見ていこう。

 この「道」をわがものとして守っているひとは、何ごとについてもいっぱいまで満ちることは望まない。そもそもいっぱいにまでなろうとしないからこそ、だめになってもまた新たになることができるのだ。(15 古えの善く道を為す者)

 過剰に欲求を満たそうとすることを戒めるのではなく、ものを持ちすぎると自身を変化できなくなることが重要なポイントだ。私たちの日常の中でもサンクコストが発生することは多い。時間やお金を投資すればするほど、そこに価値を内在的に見出してしまう。そうすると本来は変化したいのにも関わらず、新しいことへのチャレンジが遅れる。そうするとちょっとした躓きが挫折になってしまうほど、失敗に伴うリスクの質と量が深刻になってしまう。そうならないためには、「いっぱいまで満ちることは望まない」という節度を持つことが重要であろう。

 他人のことがよくわかるのは知恵のはたらきであるが、自分で自分のことがよくわかるのは、さらにすぐれた明智である。(33 人を知る者は智)

 そのためには自分自身を知ることである。他者を理解したり、その場の雰囲気を理解することももちろん重要であろうが、まずは自分自身を知ること。自分自身を理解することで、いたずらに他者から何かを得ようとするのではなく、自分自身の持つ多様な可能性に目を向けることができるようになる。

 自分でよくわかっていても、まだじゅうぶんにはわかっていないと考えているのが、最もよいことである。わかっていないくせに、よくわかっていると考えているのが、人としての短所である(そもそも自分の短所を短所として自覚するからこそ、短所もなくなるのだ)。聖人に短所がないのは、かれがその短所を短所として自覚しているからで、だからこそ短所がないのだ。(71 知りて知らずとするは)

 その上で、逆説的な言い回しをしながら、わかるということへの節度を老子は強調している。安易にわかったと思わないこと。最後の一文は論理矛盾とも言えるが、短所を自覚していればその短所を補えるから「短所がない」とも言える状況を生み出せるのである。

 第二に、行動について見ていく。

 つまさきで背のびをして立つものは、長くは立てない、大股で足をひろげて歩くものは、遠くまでは行けない。自分で自分の才能を見せびらかそうとするものは、かえってその才能が認められず、自分で自分の行動を正しいとするものは、かえってその正しさがあらわれない。自分のしたことを鼻にかけて自慢するものは、何ごとも成功せず、自分の才能を誇って尊大にかまえるものは、長つづきはしない。(22 企つ者は立たず)

 まず、自分自身を虚飾して他者に示すことのリスクが提示されている。ソーシャル・メディアが盛んな現代社会に対する警鐘と捉えられることもできるだろう。自分という人間をソーシャルな世界に公開することの必要性は疑うべくもないだろうが、自慢や尊大な姿勢に基づく公開では逆効果だ。

 自分で自分を見せびらかそうとしたりはしない、だからかえってその才能がはっきりする。自分で自分を正しいとしたりはしない、だからかえってその正しさがあらわれる。自分のしたことを鼻にかけて自慢したりはしない、だから成功が得られる。自分の才能を誇って尊大にかまえたりはしない、だからいつまでも長つづきができる。
 そもそも自分を立てて人と争うということをしない。だから、世界じゅうにかれと争うことのできるものはいないのだ。古人のいわゆる「曲がりくねった役たたずでおれば、身を全うできる」というのは、いかにもでたらめではない。まことに、それでこそ身を全うして完全なままで、生まれでてきた本源にその身を返せるのだ。(23 曲なれば則ち全し)

 自分自身を徒にアピールしようとしなければ、他者と争うということがなくなる。さらには、アピールしようとしないからこそ、その自身の持つ才能が他者から見えるようになり、成功が長続きするとまでしている。

 りっぱな武士というものはたけだけしくはない。すぐれた戦士は怒りをみせない。うまく敵に勝つものは敵と争わない。じょうずに人を使うものは人にへりくだっている。こういうのを「争わない徳」といい、こういうのを「人の力を利用する」といい、こういうのを「天とならぶ」ともいって、古くからの法則である。(68 善く士たる者は)

 さらには、争いを避けるというメリットについて、武士や戦士という争いを職業としているように一見見える存在を例示しながら述べている。江戸時代前期の剣豪・宮本武蔵の書物とも通ずる、他力や自然の重要性が示唆されている箇所である。

 ほんとうにわかっている人は、しゃべらない。よくしゃべる人は、わかってはいない。(56 知る者は言わず)

 あらそいとは腕や足で行うだけではなく、口によっても起こるものだ。口はわざわいのもととも言うが、しゃべりすぎることを戒める一文である。何かについて饒舌な時ほど、その事象について分かっていなかったり、自身にとって都合の悪い何かがあることは私たちの多くが経験しているのではないだろうか。

 第三に他者への対応について。他者と接する上でのポイント、およびその際の留意点についても、老子は示唆に富んでいる。

 善い人は善くない人にとっての学ぶべき師となり、善くない人は善い人にとっての反省の助けとなる。ところが、その師たるものを尊敬せず、その助けとなるものを大切にしないのでは、どんなに知恵があってもひどく迷うことになる。こういうのを奥深い真理というのだ。(27 善く行くものは轍迹なし) 

 反面教師はよく膾炙している言葉であろうが、そうした存在をも師として大切に扱うということはなかなかできることではない。しかし、どんな存在でも教師や反面教師として自身の糧にさせてもらえるのであれば、大事にすることは当たり前なのだろう。

 聖人はものを蓄めこんだりはしない。何もかもすべて他人のためにしながら、かえって自分がますます持つことになり、何もかもすべて他人に与えながら、かえって自分はますます豊かになる。(81 信言は美ならず)

 そうして糧を得ながら、得られた糧を社会に対して還元していくこと。アピールではなくて、シェアである。シェアすることが、エコロジーな社会を創り上げる一つの大きなステップとなる。

 こうした日々の実践を通じながら、最高の善について老子はアナロジーとして水を用いながら解説する。

 最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。水は万物の生長をりっぱに助けて、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。そこで、「道」のはたらきにも近いのだ。(中略)そもそも、競い争うことをしないからこそ、まちがいもないのだ。(8 上善は水の若し)

 孔孟を重視するまじめな優等生と、老荘を重視する自然児的なリーダー。外形的に二つが存在すると考えるのではなく、自分の内なる多様性の中で、そうした二つの理念型を持とうと努めることが生きるヒントなのではないか。

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