2013年5月3日金曜日

【第153回】『氷点 上・下(改版)』(三浦綾子、角川書店、2012年)


 昨年、ある大学で「キリスト教学」という授業を聴講していた。大変興味深い授業であり、クラスの中で牧師であり教授である先生から勧められたのが本書である。当時、強く興味を持ったのであるが、小説をあまり読む習慣が乏しい身であるために他の書籍よりも優先順位がつい低くなってしまい、現在まで読まずにおいてしまっていた。

 本書で最も印象的なフレーズは「汝の敵を愛せよ」という新約聖書の「マタイによる福音書」第5章および「ルカによる福音書」第6章の章句である。主人公の一人が小説の冒頭でその章句を用いたある判断を為している。愛、憎しみ、原罪といった概念が本書のテーマであるとする解説が多いようであるが、私が本書に見出したテーマは「敵性」である。

 本書では、あらゆる人があらゆる相手を敵として認識するタイミングがおぞましいほどに描写されている。敵意を持つことで、ある者は相手に対して敵意を剥き出しにした言動を取り、またある者は敵意を押さえ込もうと自分自身を傷つける。しかし、こうした敵意はある相手に対して普遍的に抱く感情ではないこともよく読み取れる。ある文脈において、あるタイミングに限定された状況において、「敵性」を認識し、最終的にはその人物自身に苦悩を与える。

 そうであるからといって、「敵性」を取り除くことは果たしてできるのであろうか。本書の主人公の一人は瀕死の状況に置かれた際に生きながらえたらそれまで抱いていた「敵性」を解き放とうと決意したにも関わらずそれは叶わなかった。彼に言わせれば、自分自身が他者に対する「敵性」を解き放とうとしても、他者はなにも変わろうとせず昔の自分自身に引き戻そうとするが故に変わり続けられない、とする。

 ではこうした絶望的な法則に私たちは従い続けなければならないのだろうか。「敵性」じたいをなくすことは残念ながらできないだろう。しかし「敵性」を抱きながら折り合いをつける術はあるのではないだろうか。

 そのヒントとなるような考え方が「マタイによる福音書」第5章の中の「汝の敵を愛せよ」の後に「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」にあるように私には思える。つまり、「敵性」を悪であると考える私たちのステレオタイプな考え方が誤っているのではないか。自分を愛してくれる人を愛するだけでは人間的な発展可能性は少ないからだ。

 そうではなく、「敵性」を抱く相手や文脈において、そうした状況を認め、他者を愛するよう努力することで私たちには何らかの報いが得られるのではないか。『こころ』の中で漱石に書かしめた「精神的に向上心のない者はばかだ」という文句を彷彿とさせられる人間的成長に繋がることに思いを馳せさせられた。


『老人と海』(ヘミングウェイ、福田恆存訳、新潮社、1966年)
『罪と罰(上・下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)
『破壊』(島崎藤村、青空文庫)

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