2012年11月17日土曜日

【第123回】『老人と海』(ヘミングウェイ、福田恆存訳、新潮社、1966年)


 大学生の時に「For whom the bell tolls」を読み終えるのを挫折して以来、恥ずかしながらヘミングウェイを読んだことはなかった。人物の心象風景の描写が巧みで、引き込まれる。老いによる衰えを自覚しながらも大海原へ漁に一人で向かう老人を中心に話は進む。彼を取り巻く存在として、対峙する巨大な獲物、獲物を横取りしようとする鮫、そして老人を慕う若者、が登場し、そのやり取りのほとんどは老人の内省である。この内省が読み手の文脈に即して考えさせられる。

 「あらゆるものが、それぞれに、自分以外のあらゆるものを殺して生きているじゃないか。魚をとるってことは、おれを生かしてくれることだが、同時におれを殺しもするんだ。」

 大魚との三日三晩にわたる闘い。その果てに得た獲物を自宅まで運ぶ際の鮫との闘い。老人が力任せということではなく、自然に身を任せつつ、同時に自然の猛威に敢然とあらがいながら苦闘するシーンは読み応えがある。その果てに、大魚を狙う鮫を殺すことに対して疑問を抱いて自身を省みているのがこの場面である。

 自分の獲物を他者が狙うことに憤りをおぼえて、それに対抗することを正当化しながら、獲物を殺した時点で、他者と同じなのではないか、という疑いの目を自分に向ける。つまり、生命の連鎖というシステムの中に存在している以上、誰が食べ物を殺したのかということではなく、全てが全てに責任を持つということなのではないか。生命システムと一見して断絶した世の中に住むわたしたちにとって、そうしたシステムの一部を担う私たち人類という視点を思い返させられハッとさせられる。

 さらに、海における長い日中夜の闘いの中で、老人は自らを鼓舞するためになかば自覚的に独り言を言う。しかし、闘いに疲れて帰宅して憔悴しきって熟睡した後に目を覚ました時に、かつての弟子である少年がそばにいて話すことのたのしさにふと気づく。それが次の描写である。

 「だれか話し相手がいるというのはどんなに楽しいことかが、はじめてわかった。自分自身や海に向っておしゃべりするよりはずっといい。」

 一見して当たり前のことが書かれている。むろん、他者と話すことは楽しいことである。一人で話すよりも楽しいに決まっている。しかし、ここには上記のような深い内省における独り言をも超越するなにかがあるという対比軸があることに注目したい。その超越するなにかとはなにか。

 それは他者目線を持つことによる、一段深いレベルへの内省へと至ることではないか。他者や自然に対して拓くことによって自分自身の可能性が高まるということなのではないだろうか。

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