2012年3月19日月曜日

【第75回】『破壊』(島崎藤村、青空文庫)


 今でこそ自他ともに認める本の虫であるが、幼少の頃は、本は読まさせられるもの、という存在であった。小学生当時に読まさせられていたものは、海外および日本の小説である。分かる訳がない、というと言い過ぎかもしれないが、まったく面白くなかった。また、小学校、中学校、高校と、先生と呼ばれる職種の方々には大変申し訳ないが、国語の授業での小説の解説はつまらなかった。読み方を教えるのではなく、自身の好みを滔々と述べる姿勢で、生徒が小説に興味を持つと思っているのだとしたら、教育という崇高な行為、こどもという貴重な存在を馬鹿にしている。

 私的な経験を一般に敷衍する意図はないが、雑言はここまでで止めておこう。要は、このような経緯を経て、小説というものに苦手意識を持ち、最近まであまり読んでこなかったという自白である。

 では、苦手意識を持ちつつ、どのように小説を読むか。

 私の今の仮説的な回答として、自分と相容れない考えや生き方を知るためのケース学習として読む、という態度を取るようにしている。私小説にあるようなドロドロとした恋愛感情、あまりに酷い境遇での生活、他者への激しい怨恨。こういった極端な状況には同感はおろか、共感すらおぼえることが難しい。だから小説はよくわからないと毛嫌いしていたが、自分が共感できない状況を仮想体験する、ということに小説の意義があるのではないか、と最近では考えている。

 以上を踏まえて本書である。

 被差別部落にある自身の身の上を世間に対して秘し続けることに由来する主人公の内的な葛藤は、当初、読んでいて気が滅入った。同和問題を自身および身近な問題として体感したことがない身として、主人公の鬱屈した感情はよく分からない。彼がなにを考え、なにを恐れ、なにに対して憤懣なき想いを抱いているのか。否、想像はできるのであるが、それはあくまで私の理性的な推論に拠るものに他ならない。そうした理性による「分かる」という所作を、主人公のような境遇の人が求めているのかというと、そうではないのではないか。他者から分かられることを恐れているように思える主人公のような存在に対して、軽々に「分かる」と発することは相手を傷つけてしまうことになりかねないのではないか。

 このようにいろいろと考えても結論は出ない。無論、画一的な結論などはあるものではなく、それは相手に拠るものであり、また相手と自身との関係性に拠って異なる。しかし、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤するプロセスが、自身の内面の多様な世界観を耕し、豊かにすることに繋がるのではないだろうか。元来、自分自身の世界観など狭いものであるが、ときに夜郎自大のように振る舞ってしまうのが人間の弱さであろう。

 自身の世界観の狭さに気づき、自身の知らない境遇の人への感受性を育むこと。

 本書を読んで、小説を読む意義を少し深めることができたように思えるし、今後も、夜郎自大になっている時こそ、小説を読もうと思う。

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