2016年3月21日月曜日

【第558回】『それから【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1909年)

 高等遊民の考えることは分からない。不倫はさらに分からない。しかし、そうであっても、代助の抱く無気力と悩みと葛藤がないまぜになった名状しがたい心持ちは、強く何かを訴えかけ、共感を呼び起こすのだから不思議だ。

 梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此尤を通り越して、気が付かずにゐた。振り返つて見ると、後の方に姉と兄がかたまつてゐた。自分も後戻りをして、世間並にならなければならないと感じた。(Kindle No. 2225)

 日々働かず、結婚もせずに、親からの援助だけで生活を送る。おそらく現代においてはなかなか成立しづらい生活を代助は送る。そこに強い意志があるわけではなく、せこせこと働く人々を卑下することで、自分の存在を確かめる。そうした彼であっても、自分自身と他の家族との相違を意識はしているのだから、面白い。

 現代の社会は孤立した人間の集合体に過なかつた。大地は自然に続いてゐるけれども、其上に家を建てたら、忽ち切れぎれになつて仕舞つた。家の中にゐる人間も亦切れ切れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。(Kindle No. 2619)

 他者と自分との違い。そこに個体と個体の違いを見出し、そうした相対化の作用を近代市民社会の宿命であると代助は述べる。そうであるからこそ、絶え間ざる相対化の作用を超えた絶対化を人は時に求めるのであろうか。そしてそれが、代助を三千代との破滅的な、しかし絶対的な関係性へと走らせたものであろうか。

 其上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲はれ出した。其不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であつた。彼は此心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であつた。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質であつた。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じてゐた。相互が疑ひ合ふときの苦しみを解脱する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈してゐた。だから、神のある国では、人が嘘を吐くものと極めた。然し今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄であるといふ事を発見した。さうして、彼は之を一に日本の経済事情に帰着せしめた。(Kindle No. 2950)

 ここで、絶対的な関係性とは、人と人との間に生じる信仰ではないかと置いてみたくなるが、いかがであろうか。代助と三千代との、絶対的な関係性は、信仰なのである。そう考えると、合理的に捉えられない理由がわかるように思える。


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