2016年1月31日日曜日

【第543回】『老子』(蜂屋邦夫訳注、岩波書店、2008年)

 心がざわざわと落ち着かず、忙しくてゆとりがない時ほど、『老子』の魅力は増すようだ。様々な碩学による『老子』の現代語訳を味わうというのは、趣深いものだ。大袈裟に書けば、書物によって存在を受容される感覚を得ることができる。

 聖人は無為の立場に身をおき、言葉によらない教化を行なう。万物の自生にまかせて作為を加えず、万物を生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、万物の活動を成就させても、その功績に安住はしない。そもそも、安住しないから、その功績はなくならない。(第二章)

 人や組織に貢献したいし、それを仕事において実現したいと思うことは自然な感情の発露であろう。しかし、それが行き過ぎると、他者からの評価に一喜一憂し、自分の想定した見返りを得られない時に不満を抱くという結果を招く。自ずから然りの精神で、求めず、無理をせず、その上で淡々と生きることが、結果的にそうした肯定的なフィードバックを幸運に得られる時に感謝する。そうしたマインドセットでありたい。

 つま先で立つ者はずっと立っては居られず、大股で歩く者は遠くまでは行けない。みずから見識ありとする者はものごとがよく見えず、みずから正しいとする者は是非が彰らかにできない。みずから功を誇る者は功がなくなり、みずから才知を誇る者は長つづきしない。(第二十四章)

 ストレッチゴールについて考えさせられる箇所である。人事という仕事をしていると、社員の成長と組織の成長という二つのベクトルを擦り合わせるための一つの解決策としてい、ストレッチゴールを提供することがある。上位のポジションへの昇進や新しいプロジェクトのアサインがその典型であろう。しかし、そうした状況は現状とのギャップを常に伴うために自分自身を開き、開発することが求められる。その度合いや幅の広さが、「つま先で立つ」状態であったり、「大股で歩く」レベルにまでなっていないかどうか。それをチェックする謙虚で慎ましやかな意識が、上長や人事に求められるのではないか。大いに反省させられる至言である。

 他人のことが分かる者は智者であり、自分のことが分かる者は明者である。他人にうち勝つ者は力があるが、自分にうち勝つ者はほんとうに強い。満足を知るものは富み、力を尽くして行なう者は志が遂げられる。自分のいるべき場所を失わない者は長続きし、死んでも、亡びることのない道のままに生きた者は長寿である。(第三十三章)

 他者に貢献するためには、相手のニーズや欲求を理解するだけではなく、そもそも自分自身を理解することが必要。忙しい時ほど、他者や状況を読むのではなく、自分自身の、現状やニーズに誠実に向き合う時間を創ることが重要なのであろう。


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