2016年1月23日土曜日

【第540回】『老子【3回目】』(金谷治訳、講談社、1997年)

 老子を味わうことは、一服の清涼剤を飲むことに近い。忙しい時、プレッシャーが強い時、老子に目を通すと、自分の存在の小ささや大きな流れの中の一部にすぎないことが意識されるようだ。そうして、落ち着いて物事を眺め、自分自身を見つめ直すことができるのかもしれない。

 「無為」は「為すこと無し」であるが、何もしないことではない。ことさらなわざとらしいことをしないで、自然にふるまうこと、人間としてのさかしらの知恵やかってな感情をすてて、自然界のおのずからなありかたに従って行動するのである。(21頁)

 老子といえば無為自然の考え方が有名だ。ここでの「無為」という言葉を解説しているのがこの引用箇所である。何もしないのではなく、自ずからのあり方によって行動するというのが無為であると著者は解説する。したがって、無為に従った行動は、手を抜いて楽をするということではない。むしろ、自分自身の本性に従って自然に振る舞うことは、時に厳しい場面に向き合うことにもなるだろう。

 「晩成」ということばは、文字どおりには「できあがるのがおそい」であるが、前後の句との関係で考えると、むしろいつまでも完成しない、その未完のありかたにこそ、大器としての特色があるということだろう。できあがってしまうと形が定まり、形が定まれば用途も限られる。それは大器でなかろう。(137頁)

 完成してしまうとその後の発展可能性がなくなってしまう。ために、いつまでも完成しないことが晩成として評価される。形や範囲を定めて合理的に対応するのではなく、形を定めず、柔軟に創造していくことが求められているのである。

 ほんとうにはっきりわかったといえるのかどうか、そのわかったように思えることを、さらに懐疑して吟味してゆく必要がある。それが知を棄ててみずからを洗いあげていく過程でもある。こうして、ついに「道」にゆきついたときは、それが「道」の体得であり「道」との合一であるからには、もはや何がわかった何を知ったという境涯はすっかり抜けきっていることになるだろう。(216頁)

 何かをわかること自体が大事なのではなく、それをきっかけにして、次にわかるものへの糧にすることが大事なのではないか。そうした無限の連鎖こそが、生きることであり、学ぶということであろう。


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