2014年10月13日月曜日

【第358回】『日本資本主義の精神』(山本七平、光文社、1979年)

 長所とは裏返せば短所であり、美点は同時に欠点である。このことは、日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されていることは、「何だかわからないが、こうなってしまった。」という発展をもたらすが、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった。」という破滅をも、もたらしうるからである。(4頁)

 文化や風土と呼ばれる概念は、その内側にいる人間が自覚することは難しい。だから、明らかにしなくていいのではないか、言語化しなくていいのではないか、という帰結を日本人は導き出したくなってしまう。なぜ高度経済成長を実現できたのかを説明できないことと、なぜ失われた二十年から脱却できないのかを説明できないことは、同じ原因から導出されている。そうであるからこそ、日本文化という漠然とした概念を明らかにしようとする本書のような存在には、一読の価値がある。

 では、日本文化をどのように明らかにしているか。著者は、主に組織観と労働観という二点に分けて説明しているようだ。

(1)日本における組織観

 機能集団が同時に共同体であり、機能集団における「功」が共同体における序列へ転嫁するという形である。(36頁)

 テンニースによれば、近代化に伴い、ゲマインシャフトとは区別された存在としてゲゼルシャフトが形成されていく。しかし、日本においては、ゲゼルシャフトが形成された後に、その中にゲマインシャフトとしての機能が埋め込まれると著者はする。すなわち、機能集団であるとともに共同体であるという存在が、日本における組織の有り様なのだ。「会社は会社」として割り切っている社員も、「自分の会社」の部門や社員が不祥事を起こしたら胸を痛めるし、「自分の会社」のCSR活動が報道されたら誇らしく感じるのではないか。 程度の差はあれども、こうした心的現象は、日本における組織と、そこで働く日本人に特有な感情なのであろう。

 機能集団が共同体に転化してはじめて機能するという状態は、機能集団において自らが機能しようとすれば、まず、その共同体の一員となることが前提になる、ということである。それは、他の共同体に属しつつ、機能集団では個人として機能するということは不可能である、ということでもある。そこで自らが機能しようと思えば、逆に、自己を否定して共同体を優先させねばならないのだ。(52頁)

 組織において、組織人として機能するためには、まず共同体の一員として認められることだ。たしかに、機能集団において求められる役割を遂行するためのスキルや知識のセットも必要であろう。しかし、日本における組織では、その前提として共同体に同化することが求められるのだ。共同体の一員にならずしてそれまでの知識・経験をもとにパフォーマンスを出しても、「空気を読めない人」として否定され、さらには「出る杭」として「打たれて」しまう。

 「功」すなわち成績もしくは業績が、ある種の「序列」に転化するということである。そして、会社における能力主義もまた、「年の功」すなわち経験の蓄積という「功」と、それによらぬ才能に基づく「功」とを、その「序列転化」においてどう評価するかという問題だけであって、「功」が「序列」に転化するという基本には何の変更もない。(24~25頁)

 共同体の一員としての行動が求められるということは、共同体の内部における経験の蓄積が評価されるということである。ここに、日本企業における年功序列という評価制度が生じてくる。むろん、年功序列に基づいた昇進昇格制度や賃金制度が機能不全に至ったことを否定するつもりはないが、日本人の大本にはこうした考え方があることを意識するべきだろう。その上で、昇進昇格や賃金といった外的報酬ではなく、次の仕事で報いたり仕事の裁量を増やすといった内的報酬によって社員の働きがいを支援するアプローチに注目すべきではないか。

 「共同体の要請」なるものを絶対化しているのが、実は「話し合い」の絶対化なのである。(62頁)
 社会構造の中に契約という要素がないがゆえに、これに対応している精神構造は「話し合い」絶対という構造になるのであって、実はこのこと自体が「契約」がないことの証拠にすぎないのである。(67頁)

 共同体における「空気」を読むためには、契約で社員の行動を制約しても意味がない。契約によって結果に対してコミットさせるのではなく、「話し合い」というプロセス自体を絶対化し、そこにコミットさせることが求められる。何が話し合われるかではなく、誰と誰が話し合うかということ自体に意味があるのである。こうした「話し合い」による社内調整や根回しを欠いてしまうと、共同体の中で是とされる組織行動を起こすことができず、共同体の一員にいつまでもなれない。

 では、こうした日本における組織という名の共同体の一員として働く、個々人の労働観はどのようなものなのか。

(2)日本人の労働観

 日本においては、信ずべきものは、内なる仏であり、自己がその責任を負うべき対象もそれなのである。そして、責任を負うべき対象ーーそれが「内なる仏」であれ「神」であれーーを喪失した人間は、いかなる社会も、これを信用しなくて当然である。(129頁)

 ヴェーバーが喝破した西洋近代における労働観は、プロテスタンティズムに基づくものであり、その中心にはキリスト教における神の概念がある。このような前提に立てば、ドイツと日本における労働観が近いと言われることは多いが、その精神構造には大きな違いがあることは明白だ。では日本人の労働観の中心は何か。著者は、外にある神のような絶対的存在ではなく、内なる多様な存在としての仏、が基底にあるとしている。

 日本人が働くのは経済的行為でなく、「仏行の外成作業有べからず。」と信じ、一切を禅的な修行でやっているにほかならない。農業則仏行であり、サラリーマン即仏行であり、働くことはすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として世界を利益するため、またセールスマンは巡礼である。(137~138頁)

 内なる仏が労働観のベースにあるということは、仏行というプロセスが労働に繋がることになる。そうしたプロセスの一つが、禅における修行である。

 人間の内心の秩序と、社会の秩序と、天然自然の秩序は、一致しなければならない。それを完成するには、みなが内心の仏、すなわち自らの内なる宇宙の秩序どおりにならねばならない。その障害となるのは三毒であり、この病から身を守るには、医王である仏に従って、定められた健康法を守ることが必要である。その健康法とは、つまり各人が自らの業務を仏行と信じて、ひたすらそれを行なうことである。そして、それを行なうにあたっての基本的態度は、「正直」であり、各人がその心構えに従って、世俗の業務という仏行にはげめば、その各人の集合である社会もまた仏となり、同時に、それによって造り出したものは社会を益し、巡礼のごとくに働いてそれを流通さすことによって各人を自由にする。そして最終的には、これによって各人の内心の秩序と社会の秩序と宇宙の秩序は一致し、各人は精神的充足を保って、同時に戦国のような混乱がなくなって、社会秩序が確立するのであると。(141頁)

 個々人における禅的修行としての労働は、組織や社会における秩序の実現に寄与し、それは同時に自然における秩序へと繋がる。こうした、個人を基点としたダイナミクスが、組織・社会・自然に対しても影響を与えるという観点は、神という絶対的な存在を基点とした予定調和型のアプローチとは異なる。このように考えれば、西洋における神学と対比して、日本においては心学が配置されることは理解できるだろう。

 神を前提とした社会に「神学」があるように、本心を前提とした社会に「本心の学」すなわち「心学」があって当然である。では「心学」とは何を学ぶのか。簡単にいえば本心どおりに生きる方法を学ぶ学である。そのための方法、すなわち「薬」として、諸宗教・諸思想があるのであって、諸宗教・諸思想のために本心があるのではない。(147頁)

 あくまで内なる仏としての本心が主であり、それを説明する存在としての宗教や思想という概念は従属概念であると指摘される。本心とは、いわばあるがままの本性であろう。だからこそ、そうしたテーマを扱った海外映画が、諸外国よりも日本において流行した背景には、こうした日本文化という素地があるからではないか、と邪推したくなる。

 徳川時代には、「体制の変革」を目ざすという積極的な発想は、町人の中から出てこなかった。これは、正三のように、これから新たに秩序を立てようという時代に生きた人間の発想としては当然だが、それが固定して日々の業務が宗教的意義をもち、それがそのまま一種の生きがいとなり、同時にそれは機能集団での合理的行為が共同体への奉仕に転化するという形になれば、全宗教的情熱の日々の業務への投入となる。こうなれば社会を固定させて当然である。(167頁)

 内なる仏をベースにしたダイナミクスは、既存の枠組みの中におけるダイナミクスにすぎない。一方、神が理想を描く社会における予定調和型のアプローチは、新しい理想を神が提示しているという絵を描ければ、現在の社会を破壊して理想社会を創造するというプロセスが認められる。近代化における過程に関する彼我の相違は、こうした人間観をもとにした社会観の相違によるものなのであろう。

 自己の行為が、広くは日本の社会の全員に、狭くは自己の属する共同体に、負担をかけているか否かを、自己の「本心」に照らして、自己診断を行なうという方法を失えば、日本にプラスした点が、日本にとっても、本人にとってもマイナスに作用するであろう。(228頁)

 自分自身が行なう禅的修行は、それが組織や社会にとっても貢献できるものであるという前提に基づいて行なうものである。たしかに、そうした仮定が機能していれば全く問題はない。しかし、必ずしもそうではなく、独りよがりの独善的な行動になっている可能性がある。そうした場合、基点が善なる意図であればあるほど、他者がそれを否定することは難しく、外なる存在としての神が存在しない以上、その誤りを言語化して指摘することは難解だ。だからこそ、自己を否定するのは究極的には自己以外にはあり得ないと意識して、自身の本心を時に内省することが必要であろう。むろん、反省というプロセスにおいて他者に関与してもらうことも可能であろう。ただし、その際には他者からフィードバックを与えてもらえるよう自ら依頼することが、本心に対する内省を主体的に行なうということであろう。


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