2014年9月7日日曜日

【第334回】『山本七平の日本の歴史<下>』(山本七平、ビジネス社、2005年)

 『こころ』におけるKと後醍醐天皇。奇想天外とも言える組み合わせをもって、日本人が理想とする典型と見做す著者の考察が、上巻から引き続いて展開される。

 後醍醐帝にとっては一種の「理想」の追究であり、この理想的体制の追究と実現において帝はまことに「則理想去私」であって、そのためには天下の動乱も身の破滅も考慮していない一種の理想主義だといえる。(58頁)

 道に殉じる「則道去私」を体現したKと同じように、「則理想去私」で理想に殉じた後醍醐天皇。中心に道や理想を掲げる静謐とした存在がいることによって、周囲はどのように反応することになるのか。そこには特徴があると著者は指摘する。

 結局、動乱を収拾して権力を手中におさめるという点では帝は全く無能であり、最終的には、日本国のどこにも身を置く場所さえない、という状態を自ら招来するにすぎない。彼が命ずれば命ずるだけ、指示すれば指示するだけ、事態は混乱していく。(59頁)

 理想に突き進む中心の存在が周囲を混乱させ、振り回すことに繋がるのであるから、皮肉なものである。理想を振りかざし、理想に基づいて指示や命令を下せば下すほど、混乱を招くというのはマネジメントの悪夢ではないか。そこには、思想と実情との対比的な関係性が作用していると著者はしている。

 多くの人はその時代時代の正統思想をただ絶対の権威として生きている。しかしなぜその思想を絶対視するのかと問われれば、それを権威とする人は常に答え得ないのであって、答え得ないが故にそれは「思想」でなく「権威」となるわけである。
 そして「権威」となったとき、実は「思想」は死ぬ。(中略)
 同時に「権威」は常に権威の弱みをもつ。というのは権威は讃美と嘆賞の対象としてのみ存続しうる。従って「社会主義」が権威であるためには、社会主義国は失敗を許されないという矛盾を負う。そこでもし失敗したなら、その理由を「主義」以外の他者に求めねばならない。(中略)
 すなわち一つの主義を絶対化し権威とすれば、全日本人を、少数の例外を除いて、ことごとく「賊軍」と規定しなければならず、一方その「権威」を否定すれば、後醍醐帝はただ一人の邪魔者として、自ら遁走した者と規定せざるを得なくなるわけである。(77~78頁)

 思想は権威に繋がるが、権威になった時点で思想は死ぬ運命にある。なぜなら、思想が現実の文脈に置かれた時点で、思想と相反する多数を「賊軍」として排除しようとする。「賊軍」はマジョリティであるために、多数に敗れることが許されない思想を守るために権威者は逃げることになる。したがって、思想は、少数の弱い立場の者のみが保有することができるものであり、その担ぎ手は、果てしない純粋化のためにより先鋭化したマイノリティ集団へと変貌し続ける。安保闘争や全共闘といった、過激なセクトを生み出した典型的な事例を考えれば、日本における思想と権威との相補関係を理解できるだろう。

 そして思考を停止した者にとって、権威の滅亡は同時に自己の心理的滅亡となる。そしてその者には未来は存在してはならないことになる。そしてその場合は、あらゆる災害を「世の終り予兆」として受けとることになる。(82~83頁)

 思想が権威へと変化し、いわば自殺をする運命にあることに加え、そうした一連のプロセスを眺める人々にとって、それは終末論を生み出すことになるという。アメリカの理想であり権威の象徴であったツインタワーにテロリストの操縦する飛行機が突っ込んだ9・11の後に私たちの多くが感じた終末観を想起すれば分かり易いだろう。

 「権威」と「実情」だけで思想のない世界では「権威」と「実情」の分離・分掌が必要なことを、そして両者とも存在理由のあることを、身をもって明確にするには、後醍醐帝が必要だったわけであろう。(98頁)

 権威を実情と結びつけようとすると、権威の周囲に災禍が生じることを歴史的に証明したのが後醍醐天皇による建武の親政であった。したがって、権威の主体である存在と、実情において力を発揮する主体とを切り分けるという、日本独自の権力分離体制を生み出したのもまた、後醍醐天皇と言えるのである。

 建武中興が後代に残した唯一の遺産は「日本的修正主義」により政治的イデオロギーの「白昼夢」を、現実処理政治方式に定着さす方法論だったわけである。(232頁)

 こうした権威と実情とを分離させるための方法論が、日本的修正主義である。借り物の権威を大事にしながら、実情と分離させるために修正を施すことを、私たちは歴史から自然と身につけてきたのである。

 前方に先進国とか先進人民国とかいう自己の未来像を置き、後方には歪んだ歴史という自己の出発点を置く。同時にそれを「善」「悪」と規定する。そして、この二点の間に自己をおく。そのように自己を規定すれば、すべての人間は、後醍醐帝のように行動せざるを得ない。そして、このような形で自己を規定することによって、異常なほど強烈なエネルギーを起させることを全日本人に教え、それを一つの基本的な自己規定として定着させたのが、後醍醐帝の最大の功績であったといえる。そしてこの点では、全日本人が今でも「建武中興」の忠実な子孫である。(281頁)

 善悪を明確に切り分け、 「後方=悪」を省みることなく「前方=善」に向けて猛進する。そのエネルギーが強いために高度経済成長をなした一方で、過去を省みない行動は近隣諸国から非難を浴びる大きな原因となっている。しかし、私たちの多くは、過去を省みないために、なぜ自分たちが非難され続けるのか分からないと感じてしまう。著者は、近隣諸国との政治的な軋轢をも歴史に基づいて予見していたと考えるのは飛躍であろうか。

 『こころ』のKを基にしながら後醍醐天皇とその周囲を描いた本作。最後の締め括りも、『こころ』と『太平記』とを絡めた美しい物言いである。

 特に『太平記』は、以後の各時代が、この書から、どの部分をどのような形で引用したかを調べることによって、その時代が、どの方向に動き出したかを知りうる、最高の指標となった。この指標こそ、同時代が後世に贈った”建武”という「先生の遺書」なのである。(283頁)

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