2013年11月10日日曜日

【第220回】『戦争と平和(三)』(トルストイ、工藤精一郎訳、新潮社、1972年)

 トルストイの長編も後半戦に入った。幼い頃に読んだはずなのに、残念ながら私の記憶は全く呼び起こされない。

 アンドレイ公爵は連隊を指揮していたので、連隊の規律や、兵たちの状態や、命令の受理伝達などに心を奪われていた。スモーレンスクの炎上と放棄はアンドレイ公爵にとって画期的な事件だった。敵に対する憎悪の新たな感情は彼に自分の悲しみを忘れさせた。彼は自分の連隊の運命にすっかり心をうちこみ、部下の将兵たちの安否と、彼らに愛情を注ぐことに心を砕いていた。(225頁)

 悲しさを乗り越えるためには、情熱を注げる他の対象を見つけ、そこへのコミットメントを持つことが必要だ。アンドレイ公爵の場合、それは敵への憎悪の感情であり、敵と対峙する味方への愛情の感情であった。憎悪と愛情を生み出す戦争という存在は、それが必要とされる理由が、国家単位だけではなく、個人の単位にもあるのだろう。そうであるからこそ、戦争は美しく描かれ、魅了されることになってしまうのである。

 明日の戦闘が彼のこれまで参加したすべての戦闘の中でもっとも恐ろしいものになるはずであることが、彼にはわかっていた、そして生れてはじめて、自分は死ぬかもしれぬという考えが、現世とは何のかかわりもなく、それが他の人々にどのような影響をあたえるかなどという考慮はいっさいなく、ただ自分自身に、自分の魂にかかわるものとして、まざまざと、ほとんどまちがいのないものとして、飾らぬ恐ろしい姿で、彼の脳裏にあらわれた。そしてこの心象の高みから見れば、これまで彼を苦しめ、彼の心を塗りつぶしていたものがすべて、ふいに冷たい白い光におおわれて、陰影も、遠近も、輪郭もないものになってしまった。(382頁)

 死を間近に意識することではじめて至れる認識。死生観は生命観に通ずるのだろう。こうした死生観によって、自分自身を苦しめてきた主体が自分自身が生み出したものであり、それを達観することができるのかもしれない。

 『でも、いまとなってはもう同じことではないか』とふっと彼は思った。『だが、あの世には何があるのだろう、そしてこの世には何があったか?どうしておれはこの生活と別れるのが惜しかったのか?この生活には、おれのわからなかったものが、いまもわかっていないものが、何かあった』(476頁)

 戦場で負った怪我によって死に瀕する中でアンドレイ公爵が至った心理状態。達観してもなお自分自身の生を諦められない自分自身に気付き、その存在が何なのか、彼は自問する。

 『あわれみ、兄弟たちや愛する者たちに対する愛、われわれを憎む者に対する愛、敵に対する愛ーーそうだ、これは地上に神が説いた愛だ。妹のマリヤに教えられたが、理解できなかったあの愛だ。これがわからなかったから、おれは生命が惜しかったのだ。これこそ、おれが生きていられたら、まだおれの中に残されていたはずなのだが、いまはもうおそい。おれにはそれがわかっている!』(481頁)

 自問自答を何度となく繰り返した結果、アンドレイ公爵はキリスト教の隣人愛に辿り着く。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記、19章、18節)


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