2013年8月3日土曜日

【第184回】『下山の思想』(五木寛之、幻冬舎、2011年)

 山を登った後は、下る必要がある。 登山に対する下山。下るプロセスがあるからこその登山だと著者は強調する。

 山を登る際に意識するのは頂上だ。頂上は一つの山に一つしか存在しない。しかし、頂上から下山してたどり着こうとする箇所は無数にある。過程も多様であるし、目的地も多様である。人によって、どのような道を通ってどこを目指しても自由である。頂上はゴールが一つであるのに対して、下山にはゴールがいくつもあるのである。

 多様なゴールが用意されているということは、心のゆとりが生まれることにも繋がる。たしかに、答えが一つしかなければ、答えから逆算して合理的に最適なプロセスを導き出すことができる。しかし、そうしたメリットがある反面、正解から外れてはならないという息苦しい側面もまたある。正しいプロセスから外れることはすなわち、効率性を損なうことに繋がるからだ。

 心のゆとりが生まれれば、歩く道の近くにある風景へと意識が自然と移る。登山では山の頂から現在地までを結ぶ線分に意識が集約されるのに対して、下山では線分ではなく自身の同心円上に視野が拡がる。風景を見るともなく眺めることは、頂上から現在地までの来し方を思いながら、ふもとへの行く末を思い浮かべることとも言えよう。それは、山というアナロジーを用いながら、自分自身の来し方行く末を考えるともなく考えることにも近しい。一個人であれ社会であれ、歴史を難しいものとして考えつめるのではなく、ノスタルジックにゆとりをもってたのしむものと見做す著者の言葉をよく噛み締めたいものだ。

 多様なゴールと多様なプロセスが許容される状況においては、唯一無二の正解を選び出す二者択一という発想は必要ない。安易な二者択一を選択するのではなく、ぎりぎりまで両極端の両立を考えること。これが下山をたのしむ姿勢であるとともに、多様性の中で多様な可能性を見出すためのヒントと言えそうだ。というのも、多様な社会においては、ある事象は、状況によって善にも悪にもなり得るからである。ある状況では善であった存在が、一つの変数が変わることで悪の存在に堕してしまう。こうした善と悪の変換が容易に為される世界に、私たちは好きであろうと嫌いであろうと生きているのである。

 格差社会という存在がその顕著な例である。現代において、富める国という国家は存在でき得ないのではなかろうか、という著者の指摘を考えてみる必要がある。つまり、全員が富める国家という現象は、起こりえなくなってきているのではないか。相対的に富める国家であっても、その中には一部の富裕層と一部の貧困層とが混在して成り立たざるを得ない。それを資本主義の機能不全と断罪することは容易であろうが、断罪したところでどのような対案を出せるのか。もし出せないのであれば、格差社会という両義的な社会の中でいかに多様な可能性を見出すのかを考える方が、健全な態度と言えるだろう。


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