2013年5月4日土曜日

【第154回】『続・氷点 上・下(改版)』(三浦綾子、角川書店、2012年)


 『氷点』のラストシーンで暈されていた結果が『続・氷点』の冒頭で明らかとなる。そういった意味ではこれから書く内容は『氷点』のネタバレに繋がる可能性があるため、『氷点』を読みたい方にはお読みいただかないことをお勧めしたい。

 先日のエントリーにて『氷点』のテーマを「敵性」としたが、それに続く本作のテーマは「ゆるし」と「原罪」ではなかろうか。

 第一にゆるしについて。

 他者をゆるすとはなにか。他者からの贈り物がどんなものであれ、心から感謝できる人間は聖人のようだと著者は登場人物に語らせる。続けて、他者から贈られたものに不満ばかり述べる人物を感謝する心がないと批判する。しかし、それに加えて、そうした人物を批判する自分自身こそが、感謝を知らない人間ではないか、という自己批判をさせる。つまり、結局は、他者に感謝するべきであると思う心情自体が、感謝する心が足りないことを示しているのであろう。ともすると、自分自身を良い者として認識した上で、他者を断罪する心根を省みる必要性があるのではないだろうか。

 さらに、他者を責める心情は、自分自身を責めるという謙虚な姿勢を失いがちになってしまう。一つの問題に関して、その責任を全て担う主体が一人であるということはないだろう。そうした自分自身の姿勢に気づかされたのは、他者からもらった手紙を読みながらというタイミングであるという点が興味深い。自分の行動を直接的に省みることということは難しい。とりわけ、近しい人物との関係性を省みることは至難の業だ。本書では手紙がそのツールとして出ているが、私が自分自身を省みられているという点から鑑みれば、小説というのは有力なツールなのであろう。

 無条件に他者に感謝すること、感謝できているかを自ら省みること。こうしたことがゆるしに繋がるということであろう。

 第二に原罪について。

 原罪と向き合うこと。自分の過去の過ちを原罪として認識して思い悩む登場人物が、その過ちの結果について知ろうとする。自分の傷口をなぜ知ろうとするのか。罪の結果を知ったところで、その結果が変わるわけではない。しかし、「知ることによって、わたしは何か自分の生き方をただされるような気がする」という台詞が重たい。知ること自体に意味があるということが世の中にはあるのだ。その問題が重たければ重たいほど、何らかの方法で解決しようということではなく、問題の所在とその結果を知ろうとする勇気が求められるのかもしれない。

 さらには、鼎の軽重を問わなければ、だれにも原罪はある。原罪自体はキリスト教の考え方であるが、感覚的にはだれでも分かる考え方であろう。原罪の在処をしることは大事であるが、その解決策までを導き出すことは難しい。そうした行動ではなく、態度としてどのように原罪に接するか。著者は、自身の出生という自分でコントロールできないものに対して思い悩む登場人物に「生れて来て悪かった人間なら、生れて来てよかったとみんなにいわれる人間になりたい」と語らせる。むろん、それだけで心が晴れるということはないであろうが、原罪という誰もが持つ自身の心の闇に対して向き合うヒントになるのではなかろうか。


『氷点 上・下(改版)』(三浦綾子、角川書店、2012年)

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