2018年2月25日日曜日

【第812回】『金融腐蝕列島(下)』(高杉良、講談社、2002年)

 総会屋、不良債権処理、バブル崩壊、社内政治といった暗鬱としたテーマが散りばめられている。こうした職務内容や職場環境で働きたいとは全く思えないし、読んでいて爽快感はあまりない。しかし、暗い中にも、暗い中だからこそ、言葉に感銘を受けることがある。

「竹中に出入り禁止を申し渡したのは大人気なかったと反省してるよ。おまえは立派だ。こうして家にまで押しかけてくるのも銀行のためを思えばこそだろう。わしも今夜竹中の顔を見て悪い気はしておらん。たとえ協銀とどうなれ、竹中とは友達づきあいをしたいと思ってたが、わしが電話をかけるわけにもいかんので、カミさんに電話をかけさせようか考えながら帰ってきたら、おまえがおったので、正直うれしかったよ」(97~98頁)


 政財界のフィクサーから主人公への言葉に感動してしまった。フィクサーという存在には肯定的な感情を持てないし、企業組織にとって問題を生じさせようとも、重要なものではないと思っている。しかし、それでも人と人との真剣な交歓から生じる関係性というものはあるのだろう。


2018年2月24日土曜日

【第811回】『金融腐蝕列島(上)』(高杉良、講談社、2002年)

 小説を読む効用の一つには、自分はここで描かれている社会や組織よりはまともなところにいると、現実を肯定することにあるのではないか。本書では、バブル崩壊後に不良債権の処理に汲々とし、総会屋との縁を切れずに苦慮する大手都銀の風景が描かれている。

 過剰にデフォルメされているのだとは思う、というよりもそう信じたい。少なくとも、私がこのような企業に勤めたら数ヶ月ともたないだろうなと感じる。このような企業組織がかつて存在し得て、かついわゆるエリート層が大挙をなして働こうとしたことがにわかに信じがたい。

 ただし、本書を読んで、現在の環境を自然と肯定的に捉え、しんどい場面でもまだ大丈夫だと思えるようになったことは間違いないようだ。

 竹中は児玉から聞いた”ほめ殺し”にまつわる話を披瀝したくなったが、ビールと一緒にぐっと胸に呑み込んだ。(315頁)


 小説の世界観に入り込めるのは、こうした人物の言動の描写が見事で、心情を言動に表してそれを文章になっているからであろう。


2018年2月18日日曜日

【第810回】『西郷南洲遺訓』(山田済斎編、岩波書店、1939年)

 NHKの「100分de名著」で興味を抱き、そこで扱われている書籍を読み始めるパターンが私の中であり、本書はその典型例である。司馬遼太郎からは『翔ぶが如く』でネガティヴに描かれ、内村鑑三からは『代表的日本人』で賞揚されている西郷隆盛。その人物の評価は難しいのであろうが、評価が多様に分かれるというのは興味が湧く。

 薩長同盟や江戸城無血開城といった幕末における活躍が好意的に評価されるのに対して、西南戦争に於いて主体性を失ったとも言われるが言動が否定的に捉えられる。こうしたくっきりと対照を為す構図があるからこそ、西郷に対する評価は分かれ、だからこそ面白さが増すのではないか。

 本書では、西郷が語ったとされる言葉の数々が提示されている。後世の歴史家による毀誉褒貶から学ぶことも重要であるが、読者である私たちが直接彼の言葉からその言動を評価するというのも良いのではないか。

人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引き起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才芸有りて用便なれば、用ゐざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。

 企業組織における人事部門で働く身として、心して読みたい箇所である。仕事ができる人物に対して、上司や人事部門は期待を持つ。もっとできると考えてより幅広い役割や重たいポジションを用意することが本人のためであると思ってしまう。しかし、その人物の成長可能性を判断することが重要である。過剰な期待は、その人物を却ってダメにしてしまう可能性がある。

二五
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。

 立腹したり義憤を感じる際に、私たちは相手に対して怒りを感じる。しかし、他者を見るのではなく、他者や自分自身を引いた目で見ている天という視点を持つことが大事である。そうすることで、狭い範囲での短い時間における怒りという一時的な感情に捉われず、自分自身を律するという考え方を持ちたいものである。

二九
道を行ふ者は、固より困厄(こんやく)に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔(など)に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥(いよいよ)道を行ひ道を楽む可し。予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。


 知識があるかどうか、スキルが高いか低いか、といった他者から見てわかりやすいもので私たちは一喜一憂してしまう。また、持っていなければ自信を失い、持っている他者に対して羨望の眼差しを向ける。しかし、私たちが大事にしなければならないものは、道として自身が信じるものを心に持ち、ひたすら進もうとすることである。他者との比較で浮き沈みが落ちてしまいそうな時に思い出したい言葉である。


2018年2月17日土曜日

【第809回】『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎、岩波書店、1982年)

 名著の誉れが高く、また現在コミック版の流行もあってベストセラーとなっている本作。恥ずかしながらまだ読んだことがなかったため、流行に乗り遅れていることを自覚しながらも読み進めてみた。

 おそらくは中学生以上の学生を想定読者として、哲学者である著者が噛み砕いて読み聞かせるように書かれている。最初に書籍化されたのは1937年であるが、現在の日本社会においても適用可能な普遍的な考え方が提示されている。いわば「道徳」と呼ばれる学問領域は戦前と戦後とで大きく異なっていると誤解していたのであるが、今読み解いても共感しながら認識を新たにできる内容であることに新鮮な驚きを覚えた。

 中学生である主人公が、自身で問いを作って考え続けたり、叔父との対話で学びを得たり、というプロセスはさながら哲学である。哲学者の碩学である著者の力量が凝縮された一冊である。

 人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、ーー正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。(256頁)

 失敗をした時、しかもそれが自分自身の良心に気づきながらもそこにコミットして一歩踏み出す勇気を出せなかった時。私たちは自分自身を裏切ることで自分自身を傷つけ、それによって壊れた(と思ってしまう)他者との関係性の修復に取り組むことに二の足を踏んでしまう。


 誰しもが少なからず経験したであろうことを巧みにエピソードとして提示しながら考え方を述べている。過ちを認めることの大切さと、良い結果をたとえ得られないかもしれないとしても非を詫びることの尊さ。そうすることは、過去の事実は変えられないとしても、少なくとも将来の自分自身の糧として活かすことに繋がる。


2018年2月12日月曜日

【第808回】『魔球』(東野圭吾、講談社、1991年)

 本書を読む直前に、救いのないプロットの小説を読んだからか、人間の優しさや尊さが染み渡ってきた。著者の小説を読むのは数年ぶりである。以前読んだものも、殺人事件ではあるが、そこには理由があり、他者を愛することや生きることについて考えさせられた。

 本作も考えさせられた内容は近しい。もちろん、殺人は絶対に犯してはならない行為であり、その結果は周囲にも悲しい結果を招くことは本作でも描かれている。しかしそれと同時に、人が何を考え、何を感じ、どのように行動するか、という過程にも私たちは目を向ける必要があるだろう。

 悪い結果を悪い結果として捉えるのではなく、なぜそうした結果を招いたのかという過程を具に観察し、他人の行動や思考を追体験して気づきを得ること。単なる性悪説や性善説といった二元論に逃げるのではなく、その間に留まって他者に寄り添いながら事実を冷静に観察すること。

 それが生きることであり、他者と豊かな関係性を紡いでいくということなのではないだろうか。

 だが私は知っている。母がふと遠くを見る目をすることを。そして彼女が何を見ているのかも知っている。なぜならそれは私が見るものと同じだからだ。これから先、どれだけ時間が経とうとも、それは決して私たちの心から消え去ることはない。永遠に消えないのだ。青春を賭け、命を賭けて、私たちを守ろうとした人がいたことだけは。(318頁)


 物語の締め括りに後日談として手記を用いているところが、漱石の後期三部作を彷彿とさせた。そしてその内容が、本書の主要な登場人物の複雑な愛に溢れた言動を見事に描写していて、心地の良い読後感を得られた。


2018年2月11日日曜日

【第807回】『コインロッカー・ベイビーズ(下)』(村上龍、講談社、1984年)

 裏扉の謳い文句には「現代文学の記念碑的作品の鮮烈な終章」と書かれている。しかし、とにかく暗く、読んでいて暗鬱とする。救いがない。どの人物にフォーカスを当てても、気が滅入ってくる。

 それでも、続きを読みたくなるのである。読まずに本を閉じてしまえばいいのだが、一気に読まさせられる何かがある。これが「現代文学の記念碑的作品の鮮烈な終章」ということなのか、中毒性はあるのだろう。

 死に抗うのを止めると体から苦しさが消えること、心臓の鼓動が聞こえる間は諦めずに苦しさと戦い続けなければいけないこと、の二つだ。(185頁)

 死と紙一重の体験をした主人公の一人が気付かされた二つのこと。この部分は物語の最終章であり、素直に感銘を受けた。物語は明るい終わり方をするのではないかと一瞬思った。しかし、最初にも述べた通り、そのようなことはなく、むしろさらに悲惨を極める終わり方となる。


 予定調和では終わらない。これが「現代文学」というものなのだろうか。


2018年2月10日土曜日

【第806回】『コインロッカー・ベイビーズ(上)』(村上龍、講談社、1984年)

 現代小説をほとんど読んでいなかった頃、村上春樹と村上龍を混同することがよくあった。最近になって村上春樹の作品が好きになってきたので、単純な気持ちで、村上龍の作品も読もうと思った。当然だが、苗字が同じだからといって文体が似ているわけはない。新しい作家の書籍を読むときのちょっとした高揚感を持ちながら、新鮮な気持ちで読み進められた。

 理由はわからないが突然何もかもいやになったのである。鳥の景色、海の輝き、乾いた魚の匂い、坂道に咲くカンナ、犬の鳴き声と仕草、棒で跳ぶこと、全てがいやになった。飽きたのだ、と自分では思った。特に、運動場に吹く海からの生暖かい風が我慢できなかった。(88頁)

 棒高跳びに夢中になっていた主人公の一人が、そのアイデンティティにもなっていたものをあっさりと諦めようとするシーンである。この場面もそうだが、読み手が予定調和的に先を予測しながら読むと、スピードがあまりに速いし、かつ変化も多い。緊張感を持ちながら読まさせられる。

 本当は、歌手になるのではなくて歌手として生まれてきたかった。歌手になる前の僕は死んでいた、笑いたくないのに言われるままに笑う焦点のぼやけた写真の中の人物だった、歌手になる前の僕をずっと過去に遡っていくと怯えて泣いている裸の赤ん坊がいるだろう、箱の中で薬を振り掛けられて仮死状態のまま見捨てられていた赤ん坊だ、これまでずっとそうだった、僕は歌手になって初めてコインロッカーの外へ出ることができたんだ、仮死状態の自分が嫌いだ、仮死状態で住んでいた場所はみんな爆破して消してしまいたい。(191頁)


 主人公の二人は、母親に捨てられ、コインロッカーで発見された出自を持つ。出自がこうした状態だと、他者に対して、社会に対して、そして自分自身に対して「複雑」とだけでは形容できない不安定な状態になるのであろう。わかったとは言えないが、わからないことに想像を持つことができるようになる書籍である。


2018年2月4日日曜日

【第805回】『越境的学習のメカニズム』(石山恒貴、福村出版、2018年)


 学校を卒業したからといって学習が終わるわけではない。むしろ、環境変化に対応するために、私たちは学び続ける必要性は増す。学校における、ともすると受動的な学習から、能動的な学習へのシフトが私たちには求められ、学びの主体は働く個人の側に委ねられる。

 中原淳さんが近著『働く大人のための「学び」の教科書』で論じたこのような学びの変化を踏まえれば、その学びの方法や環境も変化することが自然である。私たちは、これまでの学びから新しい学びへとアジャストすることが必要なのではないか。

 これまでの企業組織における学びは、OJT、Off-JT、自己啓発の三分類で括られることが多い。本書における先行研究でも、この三つの概念と比較しながら越境的学習を以下のように定義づけている。

 越境的学習は、単一の状況と複数の状況という軸、および状況的学習と学習転移モデルという軸を設定した場合、複数の状況で状況的学習を行う場合に該当する(53頁)

 社会や職場における多様性が増す現代においては、人の外的・内的多様性が高まることは、その相互作用によって形成される状況や場面における多様性も高まることを意味する。したがって、私たちが学ぶ環境も、その多様性が増すことに繋がるはずだ。

 越境学習ではなく越境と学習の間に「的」を入れた著者の想いが伝わってくるようだ。状況が多様になれば、私たち個人はそのような状況を渡り歩き、それぞれの状況で得られた学びを個人として内省して学びを深め、変化を自ら促進する必要が生じてくる。

 このような多様な学びのboundaryは、それぞれの細かい差異を議論することの意味が減衰するように曖昧なものとなってくる。したがって、越境「的」学習という概念として整理されていることで、私たちの学びのboundaryが弱まり、多様で柔軟な学びを私たちにもたらすことに繋がるのではないか。

 本書では、プロボノ、勉強会・ハッカソン、異業種交流会、副業といった従来の自己啓発の射程範囲から少し外れる新しい学びの場面における越境的学習の効果が調査されている。その結果として、学習の効果が以下のように明らかになったと理論的意義において述べている。

 明らかになった効果は、学習者は「自らが準拠している状況」の「意味」とは異なる「意味」の存在を認知し、「意味の交渉」を行う可能性を広げることができるようになることであった。(205頁)
 異なる状況という文脈を横断する(異なる領域の人々と交流する)からこそ、異なる多様な知識や情報に気がつき、それらを統合する能力が醸成されるという越境的学習の効果を示すことができたと考える。(205~206頁)

 個人における学習が変われば、企業組織がそうした個人をどのようにサポートするかも変わる。企業において求められる学びを促すことは今後も必要ではあるが、その主体として企業のみが担う必要はないし、企業以外の多様なアクターが学びを促すことが求められる。そうであるからこそ、実践的意義を述べられている以下の三点を、人事部門は重く受け止める必要がある。

 所属する企業とは明確に異なる領域の人々と交流する越境的学習については、本業の業務遂行に効果を有することになる。(213頁)
 自組織以外の異なる領域の人々を加えてグループ討議あるいは対話を行うだけでも、一定の越境的学習の効果を得られる可能性がある。(214頁)
 企業は自社の人的資源管理との関係性を意識したうえで、越境的学習の導入を検討する必要性があろう。(214頁)

 第三の点で述べられているように、自社における人的資源管理の制度との整合性を持つことは必要不可欠であり、それは一筋縄ではいかないだろう。しかし、人事として、その難しさや煩雑さを乗り越えて、越境的学習の効果を求めることには、企業としても価値があることを理解し、チャレンジしたいものである。働く個人に対して、またそうした個人を支える人事パーソンに対して、意欲と武器を与えてくれる一冊である。

【第466回】『パラレルキャリアを始めよう!』(石山恒貴、ダイヤモンド社、2015年)
【第252回】『組織内専門人材のキャリアと学習ー組織を越境する新しい人材像ー』(石山恒貴、日本生産性本部、2013年)
【第710回】『サクセッションプランの基本』(C・アトウッド、石山恒貴訳、ヒューマンバリュー、2012年)

2018年2月3日土曜日

【第804回】『働く大人のための「学び」の教科書』(中原淳、かんき出版、2018年)


 本書は、働く大人が、仕事や他者との交流を通じていかにして学び続けるかを論じた書籍である。ポイントを分かりやすく書かれているが、決して議論の中身が薄いものではなく、丁寧に論が進められ、読者が深く考えられるような構成になっている。

 まず著者が私たちに冒頭で投げかけるのは、学びの主体は誰が担うのかという問いである。

 僕は一方、シャイン教授のシンプルな主張を頭では理解しつつも、「生存不安をあおられてから学び直すこと」は、個人に多くの労苦を求めてしまうのではないかとも思っています。端的に申し上げるなら、他者に生存不安を脅かされてから学ぶのでは、学びそのものに喜びをなかなか感じられなくなります。(Kindle No. 341)

 エドガー=シャインの議論を引きながら、学ぶための主体を環境や他者に委ねず、自分自身が担うべきであると述べられている。その理由として、何よりも、学びそのものに喜びを感じ、楽しみながら学ぶためには、自分がオーナーシップを持つことが必要なのである。このように、学びの主体を自分自身に置いた上で、著者は「大人の学び」を以下のように定義している。

 「自ら行動するなかで経験を蓄積し、次の活躍の舞台に移行することをめざして変化すること」(Kindle No. 266)

 学びとは変化である、と心理学では言われている。上記の定義では、一昨年に流行した『ライフシフト』での主題である人生100年という新しいパラダイムのもとで、「次の活躍の舞台」へと移行することを目的とした学びという点が加味されていることに着目したい。現代社会のパラダイムでは、企業組織の中でキャリアアップを目指すのではなく、長い人生の中で自らがイニシアティヴを持って生きていくために学びが必要なのではないか。

 こうした考え方の転換を踏まえて、著者は「背伸び」「振り返り」「つながり」という三つの原理原則と、「タフな仕事に挑戦」「本を1トン読む」「人から学ぶ」「越境する」「フィードバックをとりに行く」「場づくり」「教えてみる」という七つの行動を提唱している。

 それぞれのポイントについて、例示を交えながら納得的に書かれているので、詳細に興味がある場合にはぜひ本書を紐解いてみてほしい。学び続けることがしんどい作業に思える方に一つだけ付言するために、原理原則の一つ目として挙げられている「背伸び」から以下を引用する。

 人はときには、一人で孤独に考え込むことも大切なのかもしれませんが、「わたしの存在が弱っているとき」に、自分の内面やインサイドを、自分一人で、えぐって、背伸びの方向性を探しても難しいのではないかと思うのです。
 ですので、そのようなときには、まずは「自分から離れる」。ないしは、「自分を手放す」。視点を変えて、「他人から感謝されること」を試みてはどうかと思うのです。(Kindle No. 559)

 仕事の中で背伸びすることにしんどい側面があることは間違いない。これまでの自分の知識・経験でできるコンフォートゾーンを超えた部分にチャレンジするのだから致し方ないだろう。

 しかし、何もコンフォートゾーンを越えた背伸びが全て望ましいわけではない。「背伸びをしようとする大人の心理状態」(Kindle No. 485)で分かりやすく図示されている通り、あまりにストレッチしすぎると恐怖と不安で仕事に手がつかないパニックゾーンに飛躍してしまうのである。

 いかにして、コンフォートゾーンとパニックゾーンとの間に存在するストレッチゾーンを目指すか。環境は変わるし、人は変わるのであるから、その解は、試行錯誤を繰り返すして自分でデザインし続けるしかない。しかし、背伸びをしながら生涯を通じた学びを実りあるものにするためにも、苦しい学びではなく、楽しい学びを心がけたいものである。

 そのためのヒントは、本書にふんだんに盛り込まれている。ぜひ学びを自分のものとして捉えて、頑なにならず柔軟に学ぶためにも、折に触れて読み直したいものである。自戒を込めて。

【第727回】『人材開発研究大全』<第1部 組織参入前の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第684回】『フィードバック入門』(中原淳、PHP研究所、2017年)
【第641回】『職場学習論』(中原淳、東京大学出版会、2010年)
【第359回】『駆け出しマネジャーの成長論』(中原淳、中央公論新社、2014年)
【第113回】『経営学習論』(中原淳、東京大学出版会、2012年)