2017年7月9日日曜日

【第725回】『豊饒の海(三)暁の寺(2回目)』(三島由紀夫、新潮社、1970年)

 対照的な人物とはいえ、ここまでの二作では「日本人」の「男性」という共通項があった。そうした中で、前作までで暗示があったとはいえ、「異国」の「女性」というこれまでとかけ離れた人物へ転生が為される。それでも、前二作を受け継いでストーリーを紡いでいるところが著者の力量の為せる技であろう。

 清顕が時代を動かさなかったように、本多も時代を動かさなかった。そのむかし感情の戦場に死んだ清顕の時代と事かわり、ふたたび青年が本当の行為の戦場に死ぬべき時代が迫っていた。その魁が勲の死だった。すなわち転生した二人の若者は、それぞれ対蹠的な戦場で、対蹠的な戦死を遂げたのだった。(23頁)

 感情の赴くままに時代を生き、一気に死へと突き進んだ清顕と勲。転生した二人と関わりながら、感情を動因として動くことのない本多との好対照が端的に記されている。興味深いのは、清顕と勲という彼ら自身もあまりに相容れない人物同士であるにも関わらず、感情によって激烈に動くという公約数を持って一括りにし、本多との対比を鮮明にしている点である。

 色彩の皆無が、本多の心を寛ろがせた。(中略)
 石窟の冷気のなかに一人でいて、本多は周囲に迫る闇が、一せいに囁きかけて来るような心地がした。何の飾りも色彩もないこの非在が、おそらく印度へ来てはじめて、或るあらたかな存在の感情をよびさましたのだ。衰え、死滅し、何もなくなったということほど、ありありと新鮮な存在の兆を肌に味わわせるものはなかった。いや、存在はすでにそこに形を結びはじめていた。石という石にはびこった黴の匂いの裡に。(100頁)


 こうした描写も美しい。と同時に、本多に語らせるインドおよびその地での仏教の原風景に魅せられるシーンである。


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