2017年7月2日日曜日

【第723回】『豊饒の海(一)春の雪(2回目)』(三島由紀夫、新潮社、1969年)

 優れた小説は、読み返すたびにその面白さを感じ取ることができる。同じプロットでも、繰り返すことで読み取れるポイントが異なってくる。半ば自分に信じ込ませている部分もあるが、何より、読むことが楽しいから、もう一度読みたくなるということである。

 彼は自分の十八歳の秋の或る一日の、午後の或る時が、二度と繰り返されずに確実に辷り去るのを感じた。(24頁)
 彼は冴え返りながらおもむろに来る春を、予感に充ちた怖ろしい気持で迎えた。(144ページ)

 三島と漱石というタイプの異なる二人の作家を好むのはなぜなのか。自分でもよくわかっていないのであるが、時間の移り変わりに対する美しい描写が共通しているのではないか。これらの部分は特にその典型例である。

 偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう。どんな勝利やどんな失敗にも、偶然の働らく余地が一切なかったと考えられるとしたらどうだろう。そうしたら、あらゆる自由意志の逃げ場はなくなってしまう。偶然の存在しないところでは、意志は自分の体を支えて立っている支柱をなくしてしまう。(129頁)
 自由意志と偶然とは相反する物なのではなく、相補的な関係にあると三島は主人公に語らせている。私たちは偶然をなるべく避けようと意志の力で対応しようとする。しかし、偶然を否定することは、自由意志を存分に発揮することを否定することに繋がりかねない。偶然をなくせば、私たちが自由意志を発揮しようとする勇気を減衰することになるという考え方は興味深い。

 たしかに人間を個体と考えず、一つの生の流れととらえる考え方はありうる。静的な存在として考えず、流動する存在としてつかまえる考え方はありうる。そのとき王子が言ったように、一つの思想が別々の「生の流れ」の中に受けつがれるのと、一つの「生の流れ」が別々の思想の中に受けつがれるのとは、同じことになってしまう。生と思想とは同一化されてしまうからだ。そしてそのような、生と思想が同一のものであるような哲学をおしひろげれば、無数の生の流れを統括する生の大きな潮の連環、人が「輪廻」と呼ぶものも、一つの思想でありうるかもしれないのだ。(283頁)

 本作は輪廻転生をテーマにした連作の第一部である。仏教における輪廻の考え方を基にした思考を主人公に語らせながら、個人と時代という大きな流れとの関係性に目を向けさせる。パラダイムの中で人はどう生きることができるのか、という気宇壮大なことを考えさせられる箇所である。

 『自分たちが交わす言葉は、ただ深夜の工事場に乱雑に放り出された沢山の石材だ。その工事場の上にひろがっている広大な星空の沈黙に気づいたら、こんな風に石材は口ごもるほかはないだろう』(340頁)


 『潮騒』に特徴的に現れるような、三島のこうした詩的な文章も心地よい。


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