2017年5月28日日曜日

【第713回】『ワーク・ルールズ!(2回目)』(ラズロ・ボック、鬼澤忍・矢羽野薫訳、東洋経済新報社、2015年)

 Googleが目標管理の仕組みを変えた、という話は有名だが、それは下手をするとGEやマイクロソフトと同様に年次評価を廃止したというように早合点される。しかし、実際にはそうではなく、その内容と方法をビジネスの変化に合わせて対応したということである。ではなぜ廃止していないのか。

 多くの企業が業績評価を完全に放棄しつつあるのに、グーグルが評価システムにこだわるのはなぜか?
 それは公正さのためだと私は思う。
 業績評価はツールであり、マネジャーが給与や昇進について決定を下す過程を簡素化するデバイスだ。ひとりの社員として、私は公正に処遇されたい。(Kindle No. 3852)

 人事として公正さをいかに担保するかは最も重要な観点の一つである。この公正さを担保し、それに基づいて様々な人事的なアクションを行うために、業績評価は必要であると著者は力説する。フィードバックが定着していない日本の多くの企業においては、評価面談や中間評価といったタイミングでフィードバックできる機会は貴重である。これをきっかけに上司と部下とでその部下の開発に向き合うことができる。

 社員の業績評価におけるキャリブレーションの効果は、採用面接のあとに意見を交換することの効果と似ている。その目的は同じ、つまり、個人のバイアスの源を取り除くことだ。(Kindle No. 3824)

 業績評価がしっかりしていれば、社内の異動もしやすくなる。(Kindle No. 3852)
 

 キャリブレーションの重要性は引き続き存在するし、評価によって異動が円滑に進むということもある。官僚的なプロセスになってしまうのは本末転倒であるが、公正さを担保し、フィードバックを文化として定着させるために、目標管理を有効に活用したいものだ。


2017年5月27日土曜日

【第712回】『戦略的人的資源管理論(2回目)』(松山一紀、白桃書房、2015年)

 学術書を読むたびに思うが、読めば読むほど面白い。面白いというよりも、読み応えがあり、気づきを得られるポイントが多様にある。問題意識を練磨しながら現象を把握し、そこで得られた知見を抽象化することによって、噛めば噛むほど味が出てくるエッセンスを凝縮しているからであろう。

 人事という事象に考えさせられ、思考を深めたいと思っている時に、本書を読み直したからか、興味深く読めた。前回、読んだ時にも勉強にはなった印象であるが、興味を強く持ちながら読み進めたという意味では、今回の方が印象的である。

 パナソニックを事例にしながら人事部門の企業内でになってきた役割の変遷が読み応えがあった。かつて、1980年代半ばまでは「お世話人事」と形容され、「従業員第一をモットーに人事管理活動を実践」(64頁)することが人事部門には求められたという。そのため、「人事部門は他の職能部門の背景に退き、背後から組織の従業員を支えるというスタッフ機能」(64頁)という受身的な対応であったようだ。

 しかし、米国追随型のビジネスから脱却し、自分たちで戦略を立案することが求められるようになった1980年代後半から「経営人事」を目指し始めることとなる。その結果、本社人事部が全社員に公平・公正な運用を行うことを主眼とするのではなく、各事業部ごとのビジネスの変化に合わせた支援を行う個別の人事企画が行われるように権限委譲された。

 抽象化と具体化とを往還する論理展開を読み解くことで、自分自身が直面している人事イシューのヒントとなる。さらには、現時点で顕在化せずとも、時間が経つとひらめきに近い感覚として思いつくことができることがある。だからこそ、学術書を読み解こうと努力する営為が重要なのではないだろうか。


2017年5月21日日曜日

【第711回】『「仕事を通じた学び方」を学ぶ本』(田村圭、ロークワットパブリッシング、2017年)

 仕事を通じて学ぶ。

 おそらく、何らかの形で働いている全ての人が、仕事から学んでいる。その学び方は多様であり、学ぶ深さも人によって様々である。企業でサラリーマンとして働いている場合、週に40時間程度を仕事に費やすのだから、その働き方の質によって、学びの深さと幅が異なってくる。

 本書でも指摘されている通り、同じ業務でも、学びの蓄積によって中長期的なスパンで差が大きくなるのは自明であり、入社三年程度で先輩と後輩の逆転が生じるのも納得だ。だからこそ、「仕事を通じた学び方」を学ぶことの意義は大きい。

 本書は誠実な書籍だ。なぜなら、ビッグワードでお茶を濁そうとすることなく、一つ一つの言葉や考え方を、言葉を尽くして説明している。頭で考えながらというよりも、著者のインストラクションを受けているような感覚で読み進めていくことができる。

 特に共感をおぼえたのは、既存の理論やビジネス書をいかに活用するかに言及している点である。私は学術書を好んで(しかし苦闘しながら)読むが、ビジネスパーソンの中には、学術書は具体的でないから日常業務に使えないという考えを持つ方も多いようだ。しかし、抽象化されたものだからこそ、現実に具体化しようと読み手が努力することで得られるものがある。抽象化と具体化を行き来することなく頭で理解するだけでは、自身のビジネスに応用することはできず、仮に応用できるようなものであったとしても状況が変われば適用できなくなる。

 パブリックセオリーはその通りやれば必ず成功するというものではなく、自分のマイセオリーを補強したり、マイセオリーに”改造”したりするための材料だと考えましょう。
 マイセオリーを作ったら、補強材料となるようなパブリックセオリーがあるかどうか探してみましょう。(132頁)

 マイセオリーとは、自分自身で経験した成功例を状況・言動・結果の枠組みで整理し、それを状況・目指す結果・役立つやり方という三点セットに一般化したものである。神戸大の金井先生の考え方を当て嵌めれば、学術的な知見という理論に対して、マイセオリーは持論と形容できるだろう。仕事を通じて持論を創り上げ、それをさらに改善するために理論によって補強する。また、理論をそのまま現実に適用するのではなく、自分も持っている持論を媒介して応用しようとする。こうした理論と持論の関係性がわかりやすく述べられている箇所である。


 このように、本書は個人の学びを整理する上でも活用できるだろう。しかし、私がもっとイメージしたのは、育成担当者と新入社員とが本書を読み、本書の考え方をもとにして先輩が後輩を育成するシーンである。共通言語によって後輩が育成担当者に対して報告し、育成担当者が後輩をコーチする。新入社員は仕事の意義を考えながら一つずつ成長することができ、育成担当者は育成のマインドセットを育んで、将来マネジメントになるための貴重な準備となるだろう。


2017年5月20日土曜日

【第710回】『サクセッションプランの基本』(C・アトウッド、石山恒貴訳、ヒューマンバリュー、2012年)

 本書によれば、サクセッションプランとは「継続的に組織の中の将来のリーダーを特定し、リーダーの役割を果たすことができるよう育成するプロセス」(15頁)である。このように捉えれば、企画関連を担う人事パースンの多くは、何らかの形でサクセッションプランに携わっていると言えるだろう。

 もっと言えば、サクセッションプランという枠組みで、人事という業務を捉え直すことによって、私たちが直接部門に対して貢献できる領域を広げることができるのではないだろうか。恥ずかしながら、これまであまり理解していなかったことを自覚させられる、学びの多い書籍であった。

 サクセッションプランを行う上での中核となるコンセプトが19~20頁にまとまっている。これは一つの理念型であるとは思うが、チェックリストとして参照する上でよくままっていて使い勝手がいい。七つの観点を意訳的に箇条書きで記すとしたら、以下のようになるだろう。

(1)組織のトップマネジメントから継続的な支援を受ける
(2)組織の戦略計画と整合させる
(3)多様なメンバーでプランを作成することで、特定のニーズに偏らず組織の真のニーズを織り込むようにする
(4)候補者を特定することだけに用いず、社員が目指すべき方向性を理解できるよう継続的なコミュニケーションを行う
(5)シンプルなプランにする
(6)オープンなコミュニケーションを担保し、社員からのインプットも求める
(7)フォローアップのための測定基準を設定する

 どれも重要な視点である。その上で、最初の二つは人事としてよく留意してきたが、(3)以降は欠落しがちなものであり、個人的には反省させられた。実施フェーズにおける留意点も記載されており、私は特に以下の部分が興味深かった。

 サクセッション・プランニングを天井と考えるのではなく、個人にとっての開発の機会と考えてもらうことにつながる(99頁)


 何らかの重要なポストのサクセッサーを潤沢にすることで、組織を変化に対応できる状態へと強化する。これが組織目線でのサクセッションプランの目的であろう。ここに過剰適応しすぎると、上述したような個人目線での観点が薄れてしまう。気をつけたい観点である。


2017年5月14日日曜日

【第709回】『日本型人事管理(2回目)』(平野光俊、中央経済社、2006年)

 スリリングな読書は心地よい。

 もちろん、推理小説を読む過程で誰が犯人なのか、もしくはどうやって犯人を追い詰めるのかを考えながら読むのもエキサイティングである。しかし、そうしたケースにおいては、ひねくれた言い方をすれば、筆者が創り上げたシナリオに基づいた、いわば予定調和的な読書とも言えなくはない。

 翻って、学術書を読むという行為は、筆者の理論構成を読み解くという意味合いでは、推理小説を読むことと相違ない。それはそれで充分に面白いものである。しかし、実務において潜在的に感じていた問題意識が言語化されることで自覚され、論理的な探究アプローチに感化されて実務への応用の可能性が着想される時の心地良さは格別である。

 本書は、修士以来何度も読んでいる。修士の時分には、事業会社での勤務経験がなかったからか、その内容自体に知的好奇心が湧き、修士論文を執筆する上でも参考にさせていただいた。その後、事業会社の人事や人材育成に取り組む上では、実務を想起しながら、本書の結果というよりも過程に共感を覚えることが多くなった。読む度に考えさせられるポイントが少しずつ変わってくるというのがまた面白い。

 今回、特に感銘を受けたのは、異動およびそれに付随する人事情報に関する筆者の問題意識である。

 情報を異動に使える形に処理するには2種類の人事固有の特殊能力が要求されるのである。ひとつは、彼/彼女に関わる評判や本人との日常の会話から、本人の潜在能力や志といった定性的な情報を収集し異動に反映させる情報処理能力である。2つ目は、彼/彼女と仕事を適切にマッチングさせるための仕事の内実に関する精確な知識である。(9頁)

 人事パースンであれば、前者には日常的に意識が向き、システムを構築して人事情報を収集してラインマネジャーとコミュニケーションを取ることを行うだろう。しかし、後者に関しては、どれだけリソースを割いて、情報を収集して異動や昇進といった人事に活かせているだろうか。私にとっては、頭の痛い、しかし的確な指摘であり、今後取り組むべきと思える指摘であった。

 人事部とラインの人材の転出・転入の駆け引きは「隠れた人事情報」(hidden personnel information)を媒介して繰り広げられるのではないか。異動の際によく観察される人材の抱え込みや玉石混交人事という現象は、人事部とラインの間の人事情報の非対称性によってもたらされるのではないか(11頁)

 上述したように、ラインと建設的にやり取りするためには、人に関する情報とともに仕事に関する情報が必要とされる。さらには、それぞれについて、現状の情報と、将来における情報という幅広な時間軸での情報が求められるだろう。こうした人・仕事という内容軸と、現在・将来という時間軸でプロットされる様々な情報について、ラインと人事とで保有する内容に差異が生じることは自明であろう。こうした人事情報の非対称性をめぐって、ラインと人事との交渉が生じることは致し方ないことであり、ではどのように対応するかということを考える必要があるだろう。



2017年5月13日土曜日

【第708回】『採用基準』(伊賀泰代、ダイヤモンド社、2012年)

 流行の書籍には目を通しておいた方がいいのだろうと思いながら、ついつい優先順位が下がってしまう。本書についても、ようやく紐解くことができた。いろいろと書かれているが、要は、日本企業の人材にはリーダーシップの発揮が求められているということに尽きるだろう。

 私には、自らリーダーシップを発揮して、彼らから寄せられるアドバイスのうちどれを採用し、どれを採用しないか、自分で決めることが求められていたのです。もちろん採用しないと決めた意見に対しては、後から「なぜあの意見を取り入れなかったのか?」と問われるでしょう。しかし、その問いにきちんと返答することができれば、それでよいのです。私に求められているのは、「自分で決め、その結果に伴うリスクを引き受け、その決断の理由をきちんと説明する」ことであって、上司の指示をすべて聞き入れることではなかったのです。(74頁)


 リーダーシップに関する要件については本書を読んでいただくこととして、感銘を受けたのは、他者からの様々なフィードバックの全てに応えることは無理であること。それゆえにいずれかを自分で選ぶことと、その選んだ理由を明確にしておくこと。これらは実務に携わっているとよくぶつかるケースであり、自分が苦手とする領域なので読んでいて自分事として捉えることが容易であったし、気づきを得られた。


2017年5月7日日曜日

【第707回】『ライフシフト』(L・グラットン/A・スコット、池村千秋訳、東洋経済新報社、2016年)

 『ワークシフト』で現代に求められる働き方やマインドセットを論じた著者が、人生というスパンにおいてこれからの私たちに求められるものを描いた本作。長寿化がネガティヴな意味合いにおいて捉えられがちな我が国に対して、著者たちは日本語版への序文で以下のように述べる。

 長寿化を恩恵にするためには、古い働き方と生き方に疑問を投げかけ、実験することをいとわず、生涯を通じて「変身」を続ける覚悟をもたなくてはならない。(7頁)

 長寿化によって私たちが得られる可能性を指摘するとともに、何もしなくてもそれを得ることができるわけではないことを指摘していることに注目するべきであろう。アジャストするために自らの工夫で少しずつ実験を繰り返し、そこで得られる学びをもとに、自分自身の変容を促すのである。

 マルチステージの人生を生きるためには、これまで若者の特徴とされていた性質を生涯通して保ち続けなくてはならない。その要素とは、若さと柔軟性、遊びと即興、未知の活動に前向きな姿勢である。(224頁)

 自己変容を自ら創り込むためには、従来は子供が持っていた特質を、いつまでも持ち続けることが大事であると著者たちは述べる。そのための要素が上記で引用した三つである。シンプルではありながらも、日常の生活や仕事で追われる中で、こうしたことを意識することは難しいものだ。そうであるからこそ、大事にしたいものである。



2017年5月6日土曜日

【第706回】『How Google Works』(エリック・シュミットら、土方奈美訳、日本経済新聞出版社、2014年)

 Googleから学べるのは何もIT関連企業ではなく、普通の企業でも学べる。加えて、テクノロジーから学べるだけではなく、組織マネジメントや人事管理からも学ぶことはできる。イノベーションをすすめ、戦略を実現していく企業における、人事マネジメントは、やはり興味深いものだ。

 スマート・クリエイティブは、自分の”商売道具”を使いこなすための高度な専門知識を持っており、経験値も高い。(中略)実行力に優れ、単にコンセプトを考えるだけでなく、プロトタイプをつくる人間だ。(35頁)

 Googleにおける採用基準の高さはあまりにも有名だ。そうした彼らが採用する人材は、スマート・クリエイティブと呼ばれているそうだ。その定義が、上述した内容である。ここで面白いのは、専門知識や経験値が高いだけではなく、実行力に優れていてプロトタイプをつくる人材であると定義づけられている点である。Executionの重要性は、ベンチャー気質を失わないイノベーションカンパニーにおいても言語化されて、重視されているのである。

 スマート・クリエイティブをつなぎとめる一番の方法は、弛緩させないことだ。彼らの仕事をおもしろくする新たな方法を常にひねり出そう。(180頁)

 優秀なスマート・クリエイティブに新しい挑戦をさせるべきタイミング、あるいは本人がそうした希望を口にしたときには、グーグルはそれを叶える方法を見いだしてきた。大切な人物にとって最適な処遇を考え、組織のほうがそれに合わせればいい。(181頁)

 組織ではなく、個人を大事にする考え方が端的に提示されている。優秀な個人を組織の中にリテインし活躍し続けてもらうためには、刺激を与え続ける。そのためには、組織を動かすことも厭わない。もちろん、多くの企業でこうしたアプローチが通用するとは思えないが、こうした発想を持つことは大事なのではないか。

 ここまでの論調とはそれてしまうが、組織マネジメントにおいて意外であり面白いのが以下である。

 グーグルでは、マネジャーは最低七人の直属の部下を持つこと、とされていた(中略)。(中略)ほとんどのマネジャーの部下は七人よりずっと多かったので、これほど直属の部下が多いと、それぞれをマイクロマネジメントしている時間はないのだ。(69頁)


 マイクロマネジメントを避けるための工夫として、留意したいポイントである。管理対象の部下が多ければ、マイクロマネジメントしている余裕がなくなる。シンプルだが、至言であろう。


2017年5月5日金曜日

【第705回】『イチロー・インタヴューズ(2回目)』(石田雄太、文藝春秋、2010年)

 やはりイチローはすごいなぁと思わさせられる一冊。メジャーに行ってからの彼の言動が経年でわかるというのが良い。言葉の一つひとつに唸りながら、心地よく読めるインタヴュー録である。

 かつて、自分に与えられた最大の才能は何だと思うか、とイチローに聞いたことがある。彼は「たとえ4打席ノーヒットでも、5打席目が回ってきて欲しいと思える気持ちかな」と言った。(43~44頁)

 結果が出ない時、私たちは保守的になりがちであり、少し休みたいと思うものだ。幼少期の野球でさえも、チャンスで打席が来ないで欲しかったし、できれば打席に立ちたくないと思ったことを記憶している。失敗が目に見えているように思えて、守りに入りたくなる気持ち。こうしたマインドセットと真逆であることがイチロー自身が語る最大の強みであるというこの箇所には脱帽した。打席に立たなければヒットを打つチャンスはないし、行動することでしか修正はできない、ということではないだろうか。

「(階段なんて)上がってきてないですよ。今の僕には弱さしかありません。とくに苦しいときは、それを強く感じました。プレッシャーに打ち勝てない。負けている。もちろん、(いつか打ち勝てることを)期待はしてますけど、少なくともこの6年間はまったく克服できていない。どんどん苦しくなりますからね」(253頁)

 メジャーでの六年目のシーズンを終えた直後、すなわち春先にはWBCの初代王者に輝き、200本安打を六年続けて達成した直後の言葉であるから驚きだ。常人がたどり着けない結果を出し続けるプロフェッショナルは、プレッシャーに打ち勝つ術を持っているものだと思いがちだが、そうではないとイチローは述べている。プレッシャーは存在するものであり、存在する中で結果をいかに出すか。考えさせられるテーマである。

 この目にイチローのプレーや日常の何気ない仕草を焼きつけ、彼の試合後のコメントや普段の言葉を心に刻みつけようとしてきたのは、いったいなぜだったのか。それは、すべてがイチローにインタヴューをするために欠かせない、準備になるからだった。(7頁)


 イチローがプロフェッショナルであるならば、その言葉を紡ぎ出す産婆のような役割であるインタビュアーである著者もプロフェッショナルだと納得した一節である。インタヴューにはそこに至る準備が必要なのだ。身につまされる想いがする箇所である。


2017年5月4日木曜日

【第704回】『名画は語る(2回目)』(千住博、キノブックス、2015年)

 絵画を見るとはなく眺めていると、不思議と心が落ち着くことがある。ああでもないこうでもないと考えるのではなく、ただただ見る。ゆとりがあるから絵画を見るのではなく、ゆとりを得るために絵画を見る。何らかの気づきを得ようとするのではなく、ただ見ることで結果的に何らかの気づきを得られることもあるし、何も得られないこともある。どちらでもいい時間を過ごしたと思える。これが絵画鑑賞の醍醐味の一つなのではないだろうか。

 こうした考え方を取っていても、本書のように解説を読むこともまた興味深い。学問という鋳型に嵌めるのではなくとも、知識を持っていることで、引き出しが増える。正確には、引き出しが増えているような気がするのであるが、広い視点で絵画に向き合うことができるのである。

 再読した今回も、結果的には前回も印象深かった作品の一つであるマティスの「金魚」が面白かった。マティスのモノローグという形式で著者が「金魚」について述べている。

 私が言いたかったことは、いかなる強烈な色彩の組み合わせも、必ず画面の中で生き生きとバランスよく、ハーモニーを奏でることができるということだ。私はそれを自然から教えられた。(193頁)

 色彩の持つ意味合いと、それぞれの組み合わせによって形成される自然美について端的に述べられた箇所である。

 色彩こそ、多様な価値観を認め合う行為だ。(中略)異質なものを認め合い、それゆえ自分も個性的であることが許される、という他者を生かして結果的に自分も生きる、他者を引き立て合う調和の構造が生まれる。それが色彩というものだ。(193頁)


 色というものから、価値観へと論が展開されるのが面白い。それでいて納得的である。 異質と調和。一見すると矛盾するような概念にも思えるが、企業におけるダイバーシティ・インクルージョンを考えれば同時に並び立ち得る考え方であることがわかるだろう。


2017年5月3日水曜日

【第703回】『なんのための仕事?【2回目】』(西村佳哲、河出書房新社、2012年)

 昨年末に、ある方から「なんのために働くのかを考えてみては」という言葉を投げかけられた。年末から年始にかけて真面目に考え続けた。その時の結論の詳細は忘れたが、主には、働く個人に中長期的に貢献することと、それを通じて自分自身が成長すること、の二点であった。

 上記の回答に納得するところが大きい一方で、この問い自体を今後も考え続けたいと思ったものである。潜在的に考え続けていたせいか、本書を思い出して再読したくなった。キャリアを変える時も考えたい問いであると同時に、忙しくて仕事の意義や意味から意識がそれがちになっている時にも深呼吸して考え直したいものでもある。

 考えているのはむしろ「いま出来ることは何だろう?」ということで、やりたいとか、やってみたいという気持ちはもちろん大切なものだけれど、その「出来ること」を支える小柱の一つにすぎない。変な言い方だけれど、「出来ることしか出来ない」と思っている。(37~38頁)

 何かをしたい、目指したい、こうありたい、といった言葉は通常美しいものであり、持つべきものであると思われている。上に引用した通り、それを否定することはないのであろうが、出来ることにフォーカスを置くことも重要だ。これはリアリスティックに物事をとらえるべきだからではないだろう。出来ることを中心に置き、そこから何を加えていくかを考えて行動することで、結果として自分がやりたいことに繋がっていくのではないだろうか。

「大切にしたいと考えている」ことではなくて、実際に「大切にしている」ことは何だろう?思考を介さずに、自然と身体が動くように自分がくり返ししていることは?(58頁)
 出来ることにフォーカスを置く延長として、自分自身が自然とずっとやり続けていることに意識を向けると、自分が大切にしていること、理想としていることにたどり着く。このように考えれば、何かを考える時に、将来にばかり思いを馳せるのではなく、過去に行った具体的な行動に着目し、その結果として今自分が大事にしている価値観が現出してくる。
 どんな仕事の先にも必ず人間がいる。そして仕事の意味や質は、その人間をどんな存在として見ているかによって決まる。さらに人間がどう見えるかは、自分が自分のことをどう見ているかという目線の質にかかってくる。(250頁)

 再読していると、概ね、以前自分が面白かったところがもう一度面白く感じるものだ。しかし稀に、全くマークをしていなかった箇所に惹きつけられることがあり、上記はそのケースである。仕事の先には人間がいる、という表現が心地よく、それによって仕事の意味や質が規定されるという考え方もしっくりくる。さらには、他者の見え方は自分の目線の質に因る問いう部分もドキッとさせられる。

 好きなところも、嫌いなところもあります(笑)。でもそれも含んで尊敬しているんです。いろいろな時代を経て生きてきた人たちとつくっているのだから、全部ひっくるめてお付き合いしないと。(182頁)


 インタビューの中で出てきた言葉。尊敬する他者に対しては、好きでなければと思い、嫌いな部分があるとそう感じる自分を責めたり、もしくは他者を見る自分の目の誤りに辟易とすることがある。しかし、他者を尊敬することは、その他者を好きになることを意味しないと著者は述べる。この考え方に救われた。尊敬する人物もまた人間であり、多様な側面を持つ。したがって、全人格的にその他者を好きになるということは極めて稀なことであろうし、おそらくは生じないのではないだろうか。