2016年10月22日土曜日

【第634回】『日本社会の歴史(上)』(網野善彦、岩波書店、1997年)

 本書は、日本の歴史ではなく日本「社会」の歴史について述べられたものである。誰が何を行ったかではなく、それをもとに権力間の関係性や権力と人民との関係性がどのように変化してきたのかが丹念に述べられている。私たちの社会がどのような変遷を経て形成してきたのかを学ぶことができる。

 水田などの耕地の開発は、自然との格闘を通じて進められるが、その際、自然と人間の世界の境、あるいはそれぞれの集団の居住地域の境に、石や木などの標を立てて神を祭るとともに、山や川、巨石、巨木などに神を見て、それを祖先の神々の宿る聖地・聖域として祭ることも広く行われ、このころになれば、人里近くに社のような施設をつくることも行われるようになってきた。もとより農耕民だけではなく、海民、山民も海の神、山の神に対する独自な祭祀・儀礼を行っていたが、首長たちの服属を推し進める過程で、大王と近畿の首長たちはこれらの祭りをみずからの祭祀体系のなかにとり込み、首長たちの祭る神々と大王の祖先神とを結びつけてそれを「神話」=政治的な物語のなかに位置づけ、自らの支配の正当化をはかったのである。大王自身の祖先神の祭りを太陽信仰の聖地、伊勢において行うようになるのがいつからかについてはさまざまな考え方があるが、それをこのころとする見方も有力である。(73~74頁)

 五世紀後半からの大王を中心とした権力主体による国家形成過程が明らかにされている。自然とそれに基づく自然信仰が各地で独自に存在していた状態から、それらを束ねる形で神話が創造され、それによって大王が<日本>を束ねるという構図が形作られた。自然と私たちとの生活に基づく信仰が権力主体に取り込まられる構図の萌芽と言える動きであろう。

 こうした、人の力の及ばぬ自然、神仏の世界と人間の世界との境界として、河原・中洲・浜や巨木の立つ場所に、人びとは市を立てた。そこは神の力の及ぶ場であり、世俗の人と人、人と物の結びつきが切れるとされており、人びとはそこに物を投げ入れることによって、これを商品として交換しうる物とした。共同体をこえて人びとは市庭に集まり、畿内周辺では銭貨も用いたが、米・布・絹などを主な交換手段として、交易を活発に行った。(162頁)

 八世紀前後の畿内の様子である。神仏と市場との関係性が現れている。神道や仏教において金銭が忌み嫌われる歴史と、しかしながら神仏と市場との密接な関係性において交易が発展してきた背景とが明らかにされている。

 この時期の政府は、全体として律令の建前をなおいちおうは保ちつつ、実際には現地の問題の処理を次第に国司に委ねるようになっていたが、神社や寺院の変動についても成り行きに任せる姿勢が目立つようになった。
 しかしこうした平民たちの神観念の動揺のなかにあって、各地域を遍歴遊行して教化を進める僧侶があらわれ、これらの僧侶たちは、神が苦悩しており、その苦悩を仏が救うという考え方に立って仏教の布教をすすめた。こうして「神仏習合」といわれる動きがここに一段と顕著になり、神社に結びついた神宮寺の建立の動きが各地でみられるようになったが、同時にまた、仏教と習合して人格神の性格を持つようになった神を、仏像にならって神像に彫刻して表現することがさかんに行われた。(205~206頁)

 八世紀後半において、中央における政府から派遣された国司による支配形態が浸透し始める。しかし、そうした政治的な権力主体は、地方においては単独で成り立つことは難しく、宗教組織との相互依存関係が必要であった。さらに言えば、神道と仏教との習合が当時から為されていたというところが、クリスマスを祝い、新年を神社で迎え、法事を寺院で行うという現代日本人の宗教に対する寛容さを現していると言えるのではないだろうか。

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