2016年9月4日日曜日

【第615回】『昭和陸軍全史2 日中戦争』(川田稔、講談社、2014年)

 永田と石原の対外観の相違による対立。永田の暗殺後は、永田を引き継いだ武藤とその上官であった石原の対立となり、石原が政争に敗れた後は田中と武藤との対立へと至る。初期の頃に対外観という考え方があった対立軸が、次第に内部政治の対立へと陥ることは、日本を誰も決めない泥沼の戦争へと貶めることとなる。

 まずは、永田および武藤と石原との対立軸を改めて整理してみよう。少し長いが、永田から武藤に至る系譜を引用する。

 永田の遭難直前、永田ら陸軍中央は、関東軍など現地軍に対して、華北五省を国民政府(南京)から分離させる工作(華北分離工作)を指示した。華北の勢力圏化を目ざすもので、当地の軍需資源獲得のためだった。
 そもそも永田は、次期世界大戦は不可避であり、日本も否応なくそれに巻き込まれると判断していた。その場合、戦争は必ず国家総力戦となり、それに対応するには国家総動員と、戦時自給自足のための不足軍需資源確保が必須だと考えていた。永田は、その不足資源を中国大陸(満州・華北など)に求めようとしていたのである。それが永田にとっての満州事変であり、華北分離工作だった。
 武藤もまた同様に考えていた。華北分離工作方針は、永田軍務局長の指示で武藤自身が起案したものであり、武藤にとっては永田の意志でもあった。(12~13頁)

 前巻で扱ったように、永田は国家総動員を前提にして世界大戦へ参戦することが不可避であるという考え方であった。さらに、世界大戦はドイツを中心に近い将来において起きるものと考えており、そこに至るまでに時間的な猶予がそれほどないと考えていた。こうした考え方を否定したのが石原である。

 その華北分離工作を、石原は独自の判断から中止させていた。石原は、極東ソ連軍の増強に強い危機感をもっており、対ソ戦備充実を最優先課題とする観点から中国との紛争を避けようとしていたからである。
 そもそも石原は、二〇世紀後半期に日米間で世界最終戦争がおこなわれることになるとの強い信念をもっていた。そして、その世界最終戦争に向けて日本はアジア全体の指導権を掌握する必要があり、そのためには、まず中国に対する政治的指導権を確立しなければならないと考えていた。その足がかりとして、満蒙の完全な政治的掌握を必須とするとの判断から、満州事変に着手したのである。
 その後、参謀本部作戦課長となった石原は、極東ソ連軍の大幅な増強と、それによる大陸での日ソ軍事バランスの崩壊に直面し、自らの戦略プランの再考を迫られる。そして、対ソ軍備強化のための生産力拡充の観点から、少なくとも五年間の絶対不戦方針を打ち出した。また、対ソ警戒感から背後の安全確保を重視し、対中紛争を回避すべく、華北の勢力圏化の中止、対中不介入の姿勢となった。(13頁)

 満州事変に至るまで、永田と石原とが中枢と現地とで同じ想いで動けたことがよくわかるだろう。満州事変に対する考え方は両者で相違がほとんどない。しかし、それが必要となる理由付けが全く異なる。その差異が、満州事変の後に、永田から武藤へ、石原から田中へと引き継がれていくこととなった。さらには、そうした対立構造だけに焦点が向けられるようになり、思想の対立は政治的対立へと変化するのだから、組織というものは恐ろしい。読んでいて暗澹とする物語であるが、私たちがかつて歩んだ歴史的事実に基づいた著述であり、学ぶべき題材である。


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