2016年8月20日土曜日

【第610回】『マネジメント【エッセンシャル版】基本と原則』(P.F.ドラッカー、上田惇生編訳、ダイヤモンド社、2001年)

 著者の書籍については、もったいぶったような文章のせいか、もしくは翻訳との相性のせいか、これまで苦手意識を持っていた。『ドラッカーと論語』あたりから読み直したいと思い始め、本書を改めて読み直したところ、興味深い点がいくつも出てきた。

 マネジメントとは一つの仕事である。しかしそれは、マネジャーが専念しなければならないほど時間を要する仕事ではない。マネジャーに十分な仕事がない場合、マネジャーは部下の仕事をとってしまうものである。権限を委譲してくれないとの苦情のほとんどは、マネジャーが自らの仕事を十分持たず、部下の仕事をとるために生じる。仕事を持たないことは耐えがたい。特に働くことが習慣となっている者はそうである。
 十分な仕事を持たないことは、本人のためによくないだけでない。やがて働くことの感覚を忘れ、尊さを忘れる。働くことの尊さを忘れたマネジャーは、組織に害をなす。かくしてマネジャーは、単なる調整者ではなく、自らも仕事をするプレーイング・マネジャーでなければならない。(132頁)

 まことに不勉強ながら、著者がプレイング・マネジャーを必要不可欠なものとして重視していたとは知らなかった。「プレイング」の比重が増すことが、マネジメント不在の一つの原因として否定的に捉えられることもあるが、「プレイング」の要素は、著者が指摘するように必要である。部下の業務を管理するだけでは手応えが少なく、結果としてマイクロマネジメントによって、部下の業務を自分のものにしてしまうことになりかねない。

 成果とは何かを理解しなければならない。成果とは百発百中のことではない。百発百中は曲芸である。成果とは長期のものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。それは、見せかけか、無難なこと、下らないことにしか手をつけない者である。成果とは打率である。弱みがないことを評価してはならない。そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。人は、優れているほど多くのまちがいをおかす。優れているほど新しいことを試みる。(145~146頁)

 成果主義という考え方が、2000年代前半から否定的に扱われてきて久しく、現在では既に定着しつつある。私自身は、成果主義を短期的な業績や過度な客観志向を伴うものに限定した場合には否定的に捉えているが、その本来有する可能性を否定しない。なぜなら、ここで著者が述べるように、本来は、成果という言葉は長期的に成し遂げることをも意味し得るはずだからである。長期的な観点から、様々な試行錯誤を主体的に取り組み、そこで得られたフィードバックをもとに工夫を凝らして成果を生み出すことは、仕事をする上で望ましいものではないだろうか。成果主義が本来持つポジティヴな側面に改めて光をあてる上記の引用箇所は、目から鱗が落ちるような部分であった。

 目標管理の最大の目的は、上司と部下の知覚の仕方の違いを明らかにすることにある。もちろん、上司と部下の知覚が違っていたとしても、それぞれにとっては、それが現実である。
 実は、こうして同じ事実を違ったように見ていることを互いに知ること自体が、コミュニケーションである。コミュニケーションの受け手たる部下は、目標管理によって、他の方法ではできない経験を持つ。この経験から上司を理解する。意思決定というものの実体、優先順位の問題、なしたいこととなすべきこととの間の選択、そして何よりも意思決定の責任など、上司の抱える問題に接することができる。(163頁)

 Googleに端を発してGEまでもが厳格な業績管理の運用を中止した現在において、目標管理に対して向けられる視線はネガティヴになりつつある。年次評価と対比する形で『アライアンス』で取り上げられている「コミットメント期間」には興味深い部分が強く、私も後者の意義に賛同する一人ではある。しかし、著者が述べるように、期間がどうであれば、目標管理には、上司と部下との双方向のコミュニケーションにより認識合わせができるという意義があることに変わりはないだろう。評価のあり方を捉え直すとしても、改めて、目標管理の意義を考えた上で、対応したいものである。


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