2016年8月14日日曜日

【第608回】『老荘思想がよくわかる本』(金谷治、講談社、2012年)

 原本にあたりながら、時に解説本を読むのもいいものだ。独力では読み取れないものを、その領域の碩学がわかりやすく解説してくれる。解説本ばかりを読むのは避けたいが、原本と併せて読むのと、ゆたかな読書経験になるようだ。

 儒家のほうは、あるべき人間の姿、人間はどうあるのがいいか、つまり当為性といいますが、こうあるべきだという理想的人間というものを表立てていると思います。(15頁)

 それに対して、道家のほうは、あるがままの人間、つまり、社会人としてどうあるべきかというより、人間の本質、あるがままの人間、裸の人間というものを考える、というように分けることもできるかと思います。(16頁)

 中国古典の碩学による儒家と道家とを対比させた簡潔な要約である。どこか官僚的な印象のある儒家に対して、道家では、人間本来の可能性や全存在を肯定する思想である。しかし、ここで私たちがあるがまま=人間の欲望に基づいた生活という誤解を起こさないように釘をさすことも著者は忘れていない。

 老子にしても、荘子にしても、道家の人々は、あるがままと言いながら、欲望というものを否定するのです。これはどういうことか。つまり彼らがあるがままの人間と言っているのは、人間だけで考えていないのです。(17頁)

 欲望というものはある主体個人に関するものであり、その集合としての組織に関するものである。その結果、欲望は、個人だけがよければ、もしくは国家も含めて自分が帰属する組織だけがよければ、という行動原理に私たちを促しかねない。しかし、道家では、人間個人、その集合体である組織や人類、といった枠にとらわれず、世界全体を念頭に置いた概念として「あるがまま」を定義付けているのである。このスケール感で「あるがまま」を捉えることが、老子・荘子を理解する第一歩として重要である。

 こうした「あるがまま」をもとにした考え方に基づき、調和を重んじた行動原理が生まれる。

 対立は、相手を徹底的にやっつけなければ此方が生きていけないというような矛盾対立ではなくて、逆にとことんまでやっつけてしまうと自分のほうも存在できない、つまり相手とは反対だけれども、相手がいてこそ自分も存在するといった関係です。(116頁)

 ある他者との関係とは、一様なものではなく多様な利害が絡み合うものである。したがって、何らかの対立関係は、多くの場合に生じていると言えよう。こうした意味合いでの対立は決して悪いものではない。非Aが存在することによって、Aを自覚的に意識できるものであり、相反するものがあるからこそ、お互いが存在することができる。このように考えれば、全く一緒という同質的な連携ではなく、違いを踏まえた上での異質的な協調の有効性を考えることができるのではないだろうか。

 内にかえって自分を見るというのは、同時にそこに反映されている外の世界をも見ることで、つまりは全体を総体的に把握することです。(126頁)

 次に、自分自身との調和についてである。内省とは、自分の内面を省みることであり、必ずしも自分に閉じた行為ではない。むしろ、内側を見ることによって、翻って、他者や世界との関係性をも見ることに繋がる、と著者は読み解く。実際に内省してみれば分かるように、振り返って思い起こす場面には、たいていの場合に他者、それは実在するものでも書籍のように実在しないものであっても、が存在するものだ。したがって、自分を見ることは、広く外の世界を見ることに繋がるのであろう。

 真実のものを見抜くというのは、外からたくさんの知識を集めるということではない。たくさん得たからわかるというものではない。そういうことよりも、本当は何が大事かということを見きわめる、そして選び分けていく力を持つ、そういうことだと思うのです。(142頁)

 内省によって、内側を見ることのもう一つの大事な側面であろう。知識を得ることに汲々としがちな身としては身につまされる思いがする至言である。


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