2016年8月13日土曜日

【第607回】『バカボンのパパと読む「老子」』(ドリアン助川、KADOKAWA、2011年)

 私と同世代の方であれば、九〇年代中盤に日本放送でのラジオ番組で著者の名前を耳にしていた方もいるのではないだろうか。番組の内容は詳らかに思い出せないが、なんとなく印象が残っていて聴いていたものだ。

 ここ数年来、中国の古典に興味を持って渉猟的な読書をする中で、本書もまた、気になる存在であった。老子を「バカボンのパパ」が語るように訳すとどうなるか。著者が述べるように、私たちがバカボンのパパで想起する印象と、老子の言説には、たしかに親和性があるように思えた。大胆な意訳も味わい深く、老子をもとに考えを深める上で、興味深く読めた一冊である。一点だけ留保条件をつけるとしたら、バカボンを知らない方には、この面白さが伝わるかどうかは、なんとも言えない。

 世の中の人がみんな、美しいものを美しいものだとしてしまうこと。ここから逆に、汚いなあと思うことが出てくるのだ。同じように、世の中の人がみんな、あれは良いのだと決めつけてしまうと、逆にこれは良くないのだと思うことが出てくるのだ。
 デカパンがそこにいるとかデカパンがそこにいないとか、その有るとか無いとかもすべて相対する概念というものなのだ。難しいのと易しいのも互いがあって成り立ち、長さと短さも対比の関係、高さと低さも相手があって決まり、楽器と声はともに響き合い、前と後ろは順番なのだ。それでいいのだ。(第二章 19~20頁)

 多くの人が同じ方向を向き、そちらが正しいという言説に違和感を覚えるのは、老子のこうした考え方によるものだろう。多様な価値観を認めるということは、どれが正しいということではなく、エッジの利いた考え方がお互いに異論を受け容れながら影響を与え合うということであろう。だからこそ、他者や他者の考え方への尊敬と理解が、社会において求めらえるのではないだろうか。

 大いなるTAO、つまり大自然の摂理というものをみんなが考えないようになってくると、どういうわけか人間愛とか同義とか小賢しいことを言う人が出てくるようになるのだ。
 みんなが自分の利益のためにあれこれ知恵を働かすようになってから、人をだますようなことが行われるようになったのだ。家族の仲が悪くなったことで、孝行する息子とか優しいパパとかが言われるようになったのだ。国がボロボロになってくると、王様に忠実に従う家来の話なんかがささやかれるようになるのだ。これでいいのかどうかわからないが、そういうものなのだ。(第十八章 51頁)

 道徳教育を重視しようという主張に対して、どこか居心地の悪さを感じることの理由が、ここに表れているようだ。現代社会に関しても、いろいろと考えさせられる至言である。

 揚子江のような大きな河や海が、あらゆる川や谷の王様である理由は、大きな河や海は川や谷よりもずっと下にあるからなのだ。へりくだっているのだ。イルカも泳ぐのだ。だから王様なのだ。
 そういうわけだから、どえらい人がみんなの上に立とうと思ったら、必ずへりくだった言葉を話して、みんなよりもえらくない立場でいることが大事なのだ。みんなの先頭に立とうとするなら、自分のことは後回しにするのだ。
 そういうことなので、どえらい人はみんなの上にいても重いとは思われないし、みんなの前にいても目障りだとは思われないのだ。そうなれば、みんなはどえらい人を喜んで後押ししようと思うし、嫌だなこの人コンコンチキとは思わないのだ。それに、どえらい人は誰ともけんかをしようとしないから、みんながどえらい人とけんかをすることもないのだ。これでいいのだ。(第六十六章 165~166頁)

 老子では水の重要性が述べられていることが印象的であると以前のエントリーでも書いた。昨今では、サーバントリーダーシップや自然体でのリーダーシップといった概念が述べられることがよくあるが、老子の考え方とよく符合するように私には思える。偉い人=リーダーという古典的な捉え方ではなく、他者に影響を与える=リーダーシップと捉えれば、私たちの身近な事象として捉えることが可能である。そうした際に、ここで述べられているような考え方は、私たちに多くの気づきを与えるのではないか。


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