2016年7月18日月曜日

【第598回】『無常と偶然』(野内良三、中央公論新社、2012年)

 偶然とは何か。異なる文化との相違を足がかりにして、日本における偶然という概念を丁寧に論じる著者の一連の著作は興味深い。本作では、ヨーロッパにおける必然性と対比しながら、日本における偶然性が論じられている。

 人間は縁起の連関にただ翻弄されるだけではない。「縁」に働きかけることも可能なのだ。(96頁)

 縁とは、規定的に決まっているものではなく、私たちは縁起に受動的に対応するだけの存在ではない、と著者はしている。そうではなく、私たちが縁に対して働きかけることも可能なのだ。

 縁起観は偶然を許容する概念装置ということになる。偶然と必然が絡み合いながら、物事は運んでいく。必然だけでは物事は説明できない。偶然も大いに商量する必要がある。こんなふうに考えると、縁起は「しなやかな」論理を提起していることが分かる。縁起は西洋的な必然主義ではなくて、偶然を認めるしなやかなスタンスである。(97頁)

 縁に働きかけるというスタンスは、ゼロから何かを創り出すというものではない。私たちに働きかけてくる、否定しようのない縁に対して、それを受け容れながらも、こちらからも働きかけること。その有り様について、もう少し引用しながら見ていこう。

 縁起観は多義的な偶然に大きく開かれている。偶然に期待し、偶然を待ち構える。そして、自分にとって好ましい偶然なら積極的に受け容れる。偶然を積極的に受け容れる縁起観はプラグマティックだ。外から来る他者(偶然)を是々非々で受け容れるスタンスだ。「他者の措定」は新しい世界へ回路を通じる。新しい世界へ窓を開く。「他者」によって「自己」を知ろうとすることである。従来の消極的=否定的な縁起観ではなくて、この積極的=肯定的な縁起観を「容」偶然主義と呼ぶことにしよう。(97~98頁)

 縁じたいは既に起こった事実であり、それをなかったこととして否定することはできない。そうであれば、それをどのように解釈するかが重要になってくる。そして、縁を必ずしも徒らに肯定することを著者は述べているのではないことに着目したい。どのような縁であっても受け容れ、他者に対して自らを開き、オープンマインドによって、縁をきっかけにして自分自身を知ろうとする努力をすること。現在の自分に囚われず、起こった事実を解釈することで、自分自身の新たな可能性に気付くことができる機会が訪れることが時にあるものだ。では、どのようにすれば自らに囚われずオープンであることができるのか。

 好意的な偶然を呼び込むにはどうしたらいいのか。
 偶然は「今・ここ」での生起である。偶然は同時原因のたまものである。偶然としての他者は多義的である。多義的な偶然をしっかりと読み取らなければならない。そのためにはどうすればいいのか。日々の一瞬一瞬を完全燃焼的に生きることだ。好意的な偶然を感じ取る鋭敏なアンテナを張り巡らしながら。自分の夢、理想、願望を抱きつつ待つ。ただひたすら待つ。しかしながら、<我>という固い殻(壁)を取り払って、他者という偶然をあたうかぎり受け容れることである。(98頁)

 自身に内在する多様な可能性に対する気づきが鍵である。そうした多様なものへ気づく契機として偶然が作用する。日常的に自らを多様な可能性に対して開いておくことで、偶然に訪れる事象から気づきを得ることが時に可能となる。そこに、必然とは異なる偶然に対するオープンな態様が描き出されるのである。

 外から来る他者(偶然)を是々非々で受け容れるしなやかなスタンスーーこれが「容」偶然主義である。「容」偶然主義においては多義的な偶然をどう読み解くかが鍵になる。(99頁)

 偶然は、外から生じるものである。しかし、それをどのように受け容れるかは自分次第である。受け容れられる容量をいかに大きく保つことができるか。私たちにとって、そうした度量の大きさが、偶然を自分のものとして受け容れて、多様な可能性へと気づかせるきっかけとなるのである。

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