2016年6月4日土曜日

【第584回】『罪と罰(下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)

 登場人物のキャラが固まっていて勧善懲悪のようにシンプルな物語が展開する小説も心地よいが、様々な人物が多様な内面を曝け出して関係性が複雑になるものもいいものだ。片仮名の人物名に苦慮しながらも、本書を読みながら、そう思った。

 ピョートル・ペトローヴィチは、貧から身を起しただけに、病的なまでに自惚れのくせがつき、自分の頭脳と才能を高く評価していて、ときには、一人きりのときなど、自分の顔を鏡にうつして見惚れていることさえあった。しかし彼がこの世の中でもっとも愛し、そして大切にしていたものは、苦労をし、あらゆる手段をつかってたくわえた財産だった。それが彼に自分よりも上のすべての人々と肩を並べさせてくれたのである。(63~64頁)

 この人物は、決して「いい人」として描かれているわけではない。しかし、苦心しながら努力をし続けて、世間的な意味で「成功」したと称される結果を残している人物が、どのようにその努力を位置づけるのか、ということを考えさせられる。程度や領域の差異やセンスの良し悪しはあるだろうが、努力という目に見えないものを外化し、過剰にそれに価値を置いてしまうということは、時に人が行ってしまうものなのではないだろうか。

 「権力というものは、身を屈めてそれをとる勇気のある者にのみあたえられる、とね。そのために必要なことはただ一つ、勇敢に実行するということだけだ!そのときぼくの頭に一つの考えが浮んだ、生れてはじめてだ、しかもそれはぼくのまえには誰一人一度も考えなかったものだ!誰一人!不意にぼくは、太陽のようにはっきりと思い浮べた、どうしていままでただの一人も、こうしたあらゆる不合理の横を通り過ぎながら、ちょいとしっぽをつまんでどこかへ投げすてるという簡単なことを、実行する勇気がなかったのだろう!いまだってそうだ、一人もいやしない!ぼくは……ぼくは敢然とそれを実行しようと思った、そして殺した……ぼくは敢行しようと思っただけだよ、ソーニャ、これが理由のすべてだよ!」(302~303頁)
 ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ!あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!(306~307頁)

 自らの罪を信頼できる他者に伝える主人公。罪を正当化しようとする気持ちと、それによって自分自身を傷つけて苦しむ気持ちとを、同時に吐露している。殺人は許される行為でないことは当たり前。しかし、社会的正義という名の下に何らかの対象に殺意を抱くことは心理的にはあり得ることではないか。そうした留保を踏まえた上で、殺害対象の正当性がもしあったとしても、その結果として自分自身までをも殺すことになることに自覚的であるべきだろう。

 これは病的な頭脳が生みだした暗い事件です、現代の事件です、人心がにごり、血が《清める》などという言葉が引用され、生活の信条は安逸にあると説かれているような現代の生みだしたできごとです。この事件には書物の上の空想があります、理論に刺激された苛立つ心があります。そこには第一歩を踏み出そうとする決意が見えます、しかしそれは一風変った決意です(384~385頁)
 あのような一歩を踏み出したからには、勇気を出しなさい。そこにあるのはもう正義ですよ。さあ、正義の要求することを、実行するのです。あなたが信じていないのは、わかっています。が、大丈夫です、生活が導いてくれます。いまに自分でも好きになりますよ。いまのあなたには空気だけが必要なのです、空気です、空気ですよ!(394~395頁)

 主人公の罪を明らかにしようと度々対峙する判事による説諭のシーンである。それまでの対峙のシーンはお互いに本心を明かさずに探り合うという「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」のようなスリリングなものであるのに、最後だけは違う。物証がないということもあるのであろうが、罪に対する是非を問うのではなく、主人公に罰を受け容れる勇気を持てというところに強さと優しさを感じられないだろうか。


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