2016年5月29日日曜日

【第583回】『罪と罰(上)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)

 小説の中には、全体の物語というよりは、部分に感銘を受けるものもある。私にとって本書はそうした小説である。もちろん、部分が活きるということは、全体の構成や物語性も優れているのであろうが、以下の箇所の印象が鮮烈だ。

 ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話だ、ーーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐、ーーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、ーーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい!(328~329頁)

 主人公ラスコーリニコフは、自らが犯した社会的殺人の罪の意識に苛まれ、自ずから罪を公にするか、自死するか、罪を隠して生き続けるか、の選択を自己に課す。その中で、最後の選択肢を選び、罪の意識に悩まされ苦しみながら生き続けることを選ぶ。こうした究極的な選択を私たちは下すことは少ないだろう。しかし、藤村の 『破壊』のエントリーでも書いたように、極端な生き様を想像し、仮想的に体験できるというのが小説の醍醐味である。ラスコーリニコフが苦しみながら生を選ぶことを決意したシーンがまた印象的だ。

 《幻影、仮想の恐怖、妄想よ、さらばだ!……生命がある!おれはいま生きていなかったろうか?おれの生命はあの老婆とともに死にはしなかったのだ!老婆の霊に冥福あれーーそれで十分だ。お婆さん、どうせお迎えが来る頃だったのさ!さあ、理性と光明の世界にたてこもるぞ……さらに意志と、力の……これからどうなるか!しのぎをけずってみようじゃないか!》彼はある見えない力にむかって挑戦するように、ふてぶてしく言った。《おれはもう二本の足がやっとの空間に生きる決意をしたのだ!》(393頁)

 罪を犯すことは、自分自身を苦しめることに繋がり、絶対に称揚できるものではない。しかし、それを大きく差し引いても、この箇所に力強さや生命の輝きを感じる。選択を下すということは、何かを捨てることであり、自らの手で可能性を狭めることによる苦しみと共に生きるということなのではなかろうか。


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