2016年5月16日月曜日

【第579回】『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

 前回本書を読んだ際にはざっと読んでしまったからか、さほど印象に残らなかった。今回、じっくりと取り組んでみたら面白く読めた。リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムについて、興味深い事例を引きながら丁寧に書かれている。

 われわれの議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが何を意味するのかについて見解の相違が表れている。また別の議論には、これらの理念同士が衝突する場合にどうすべきかについて意見の対立が含まれている。政治哲学がこうした不一致をすっきりと解消することはありえない。だが、議論に具体的な形を与え、われわれが民主的市民として直面するさまざまな選択肢の道徳的意味をはっきりさせることはできる。(29頁)

 「幸福の最大化」を目指すリベラリズム、「自由の尊重」を目的とするリバタリアニズム、「美徳の涵養」を至上命題とするコミュニタリアニズム。それぞれの意味合いがここに端的に現れているとともに、なぜ哲学的な議論が必要であるかが述べられている。つまり、何が正しいということではなく、われわれが日常において直面する選択肢の背景に、どういった考え方があるのかを自覚することができるのである。

 著者はコミュニタリアニズム的な考え方を取るため、他の二つに対する反論が多くなされているきらいはある。しかし、その反論の書き方も抑制の利いた筆致であり、それぞれの考え方のポイントがよく描き出されている。三つの考え方で惹かれた部分を抜き書きしてみたい。

 ベンサムは人命の価値を含め、われわれが大切にしている多種多様な物事を単一の尺度で厳密にとらえるために、効用という概念を考えだしたのだ。(59頁)

 まずはリベリズムの思想的な嚆矢ともなるベンサムの功利主義である。功利主義の画期的な捉え方は、単一の尺度という中立的な概念を用いた点であろう。ロールズのマキシミン_ルールにも繋がる「負荷なき自己」は、著者からの批判はもっともではあるが、一つの考え方として興味深い点もあると私には思える。

 自分を所有しているのは自分自身だという考え方は、選択の自由をめぐるさまざまな論議のなかに姿を現わす。自分の体、命、人格の持ち主が自分自身ならば、それを使って何をしようとも(他人に危害を及ぼさないかぎり)自由なはずだ。(94頁)

 リバタリアニズムに共感をおぼえるのはこの部分である。他者の自由に抵触しない範囲において、自身の自由を享受する。この考え方には、根強い魅力があるように私には思えるのだ。もちろん、この後に著者が述べる事例を検討すれば、他者の自由に抵触しない範囲での自由の享受という理念型の、現実的な難しさに思い至ることにはなるだろう。その難しさを踏まえた上で、このリバタリアニズムの考え方にも一定の理解をすることは有用なのではないだろうか。

 帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。(304頁)

 やはり、コミュニタリアニズムの内容には著書の力が入っている。しかし、それを割り引いても、この部分の主張には力強さを感じ、納得感をおぼえる。自国の歴史や、所属する組織の過去の行動に対して、現在の自分はいかに責任を負担し、行動するか。自由や効用も大事であるが、コミュニティに対する「負荷ありし自己」もまた、私たちにとって大事なものである。


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