2016年2月7日日曜日

【第545回】『野分』(夏目漱石、青空文庫、1907年)

 漱石の小説において三角関係が基底として存在することを指摘したのは柄谷行人であった(『マルクスその可能性の中心』(柄谷行人、講談社、1990年))。本作では、文学者である白井道也を軸に置きながら、高柳・中野といった若者とのやり取りを描くことで三つの辺から成る関係性を描き出している。後年の代表作『こころ』を彷彿とさせる本作は、道也と高柳との関係は先生と私、中野と高柳は結婚前の先生とKを想起させる。むろん、先生・K・お嬢さんという愛に纏わる三角関係を描いた『こころ』との違いは明瞭であるが、読み比べてみると面白いだろう。

 諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊いものである。この理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり(Kindle No. 399)

 白井「道也」という名前にも漱石の含意があるのだろう。道也は、教職に就いていた時分に生徒たちに道のために生きることを説く。論語であれ老子であれ、定義の違いはあれども、道を重視し、道のために生きるということは古典において主張されてきたテーマである。しかし、遠大で形の見えない道を志向することは、若い学生にはイメージしづらいものであり、道也は学生から受け容れられなかった。一世紀以上も前に描き出された、古典や思想を巡る先生と生徒の対立構造は、現代にも通ずる構造であり、近代化以降の人々が抱える大きな課題の一つなのではないか。

 苦しんだのは耶蘇や孔子ばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑気に暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽文学者ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです(Kindle No. 1296)

 道のために生きる上で苦しむことの必然性を述べ、そうした状況を論説するのではなく、それを体現することが文学者の職分であることを道也は高柳に述べる。苦しさを徒らに正当化したり意味付けすることはあまり好きではないが、主体的に生きることに苦しさが伴うという点については同意できるし、勇気付けられる。

 秋は次第に行く。虫の音はようやく細る。(Kindle No. 1589)

 場面転換において漱石が見せる表現には呻らさせられるものが多い。上記引用箇所もその一つである。

 それが、わからなければ、とうてい一人坊っちでは生きていられません。ーー君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上ってくる平面です。芸者や車引に理会されるような人格なら低いにきまってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、やっぱり同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来なければ、彼らから見くびられるのはもっともでしょう(Kindle No. 1797)

 他者からわかってもらうことを私たちは半ば無意識に求めてしまうものなのではないか。もちろん、自分にとって大事な存在にわかってもらうことは、生きていく上で重要なことに違いない。しかし、多くの人にわかってもらいたいと思うことは、自分自身を低める行為に繋がるとする道也の指摘は傾聴に値するだろう。理解してもらうために自分自身を低めることは、翻って自分自身を苦しめることに繋がる。相手に最低限のことを理解してもらえるようにコミュニケーションをとりたいものだが、決して迎合してはいけない。

 わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得るために働くのです。結果は悪名になろうと、臭名になろうと気狂になろうと仕方がない。ただこう働かなくっては満足が出来ないから働くまでの事です。こう働かなくって満足が出来ないところをもって見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴いのだろうと思っています。(Kindle No. 1816)

 ここに来て、本書における道とは、老子における道であろうと私は解釈したが、いかがであろうか。名付けることを放棄し(できないのだから)、自ずから然りの精神で働くという姿勢は、老子が理想とする無為自然を彷彿とさせる表現であろう。

 自己は過去と未来の連鎖である(Kindle No. 2298)

 本書の最後に描出される道也による講演の冒頭である。本作じたいもお勧めの一冊であるが、特にこの講演の部分はぜひ一読をお勧めしたい箇所である。自明のことを述べているように一見して思えるが、特に「鎖」という点が示唆的である。私たちは連なった鎖である以上、過去を捨て去って自己を描き出すことはできないし、かつ将来における可能性の胚胎としての自己も同時に併せ持つ存在である。そうであれば、時間軸を断ち切ることを考えるのではなく、過去と将来という時間軸を現在にどう意味づけるかが重要なのではないか。

 先例のない社会に生れたものは、自から先例を作らねばならぬ。束縛のない自由を享けるものは、すでに自由のために束縛されている。この自由をいかに使いこなすかは諸君の権利であると同時に大なる責任である。諸君。偉大なる理想を有せざる人の自由は堕落であります(Kindle No. 2353)

 漱石が一世紀以上も読み続けられ、その新鮮さが薄れない原因は、近代化以降の人々が抱く普遍的な不安や悩みをテーマにしているからであろう。ここでは自由を享受する権利と行使する責任とがはっきりと提示されている。とりわけ、最後の一文は、私たちが襟を正しながら、読み返したい至言である。


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