2015年11月21日土曜日

【第517回】『儒教とは何か』(加地伸行、中央公論社、1990年)

 著者の「論語本」における解説に魅了されて、論語に改めて興味が湧いたとともに、著者が論語や儒教をどのように捉えているかを知りたく、本書を紐解いてみた。儒教とは、歴史的な視座に立っても、現代の地理的な拡がりという視座に立っても、中国をはじめとした東北アジア圏を理解する上で外すことのできない鍵概念である。むろん、日本社会を考える上でも同様である。

 最初に、論語を形成する文字である、漢字の特徴について、西洋におけるアルファベットとの対比から見てみよう。

 中国人の思考は、漢字ならびに漢字を使った文章によってなされる。とりわけ漢字が重要である。この漢字は本質的には表意文字である。その表意とは、物の写しのことである。物の写しであるから、まず先に物があり、それに似せた絵画的表現として漢字の字形が生れる。とすると、なによりもさきに、物体(自然的存在)があるということになり、物の世界が優先する。「はじめにことば(神)ありき」ではなくて、「はじめに物ありき」なのである。だから、形而上的世界よりも形而下的世界に中国人の関心が向かうようになる。こういう構造から、中国人はものごとに即して、事実を追って考えるという現実的発想になったのである。現実とは何か。それは物に囲まれた具体的な感覚の世界である。このため、感覚の世界こそ中国人にとって最も関心のある世界とならざるをえなかったのである。(14~15頁)

 アルファベットなどに典型的な表音文字に対する、表意文字としての漢字の特徴が端的に示されている。表音文字の代表であるアルファベットを用いるキリスト教圏の社会においては、まず神が存在し、神が創りたもうたイデアとしての抽象的観念の世界があり、それを言葉として表現するという形而上的世界観が存在する。その結果として、文字は抽象的な思考を表現するためのツールとして創り出されることになる。それに対して、現実世界を認識し、その事象を表現しようとする形而下的世界把握をする表意文字の社会においては、具体的に世界を把握するためのものとして文字が生み出される。儒教が現実主義的なテクストである点は、こうした表意文字としての漢字によって生み出されているということが強く影響しているのであろう。

 儒教とは何かーーその歴史を本書は、(一)発生期の原儒時代、(二)儒教理論の基礎づけをした儒教成立時代、(三)その基礎理論を発展させた経学時代に分けて述べてきた。要するに、儒教は礼教性(表層)と宗教性(深層)とから成り立っており、大きく言えば、(一)は、礼教性と宗教性との混淆時代、(二)は、両者の二重構造の成立時代、(三)は、両者の分裂とその進行との時代である。その礼教性は公的・社会的(ただし、家族外が中心)・知的性格を有し、知識人(読書人)・官僚(士大夫)を中心にして深化した。一方、宗教性は私的・社会的(ただし家族内が中心)・情的性格を有し、一般庶民を中心に受け継がれてきた。(220頁)

 現実をいかに生きるかを考え詰めれば、それは内面と外面という私たちの両面を丁寧に扱うことになる。したがって、これだけ長い歴史の中でかつ一定の広まりを持っている儒教に関しても、両面を扱う存在として、礼教的な内容と宗教的な内容とが混ざったものと言える。そうであるからこそ、儒教の中心的なテクストの一冊である論語は、読み返すたびに何らかの新たな示唆を私たちに提供してくれるのではないだろうか。


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