2015年9月21日月曜日

【第489回】『ドーン』(平野啓一郎、講談社、2009年)

 著者が他の書籍でも提唱する「分人」という考え方を題材にし、大事に扱った本作。分人という考え方については、著者の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を扱ったエントリーでまとめているため、そちらを参照されたい。

 あれからもう十年が経っていた。ーーそう、十年。それは、世界中の誰もが共有している、一つの時間の話だった。今、経とうとしている一分間が、正確に昨日を一分間だけ過去へと押し遣り、一日の終わりが、一年前の出来事をまた一日分だけ、現在から遠ざけてしまうような、そうした時間。……しかし、ひとりひとりの人間が持っている時間は、もっと多様で、もっと乱脈で、頼りないもので、個人の中にある分人ごとの時間の流れが、途切れたり、どこかで始まったり、絡まりあって合流しては一気に加速したり、重くなったりして、行きつ戻りつしながら、どうにかまとまりをつけている。ーーそうした中には、ある時突然、何かの悲しみのせいで止まってしまったまま、消えてなくなるわけでもなく、いつまでも終わらない、孤独な時間もあるのだった。(124~125頁)

 分人とは、私の理解では、ヨコの拡がりを示す概念である。つまり、多様な他者との多様な関係性から構成される分人と、そうした複数の分人を統合する個人としての存在、という現時点でのスナップショットのイメージである。ここで興味深いのは、現時点での分人とその統合体としての個人は、分人ごととの歴史が、個人としての歴史に繋がるという時間軸が指摘されている点である。こうした考え方はキャリア論を想起させられ、より興味を感じるのかもしれない。たとえば、多様な役割におけるフェーズの統合体としての自分という観点からキャリアを捉えようとする、ドナルド・スーパーの「ライフ・キャリア・レインボー」との親和性は高いのではないか。

 あの時と同じだと、明日人は、知らないうちに白のように兆していたその空虚感のことを考えた。恥とは確かに、生き延びようとする人間のための感覚で、どうしても、この世界で生きていきたいと願うなら、捨て去ることの出来ないものだった。受け容れられたいと微塵も願わない人間が、どうして恥に苦しむだろうか?それは、恐らく悲しみに似ていた。生きよと命じ、生きる道筋を指し示しているにも関わらず、切迫するほどに、生きること自体を断念させようとする声とつい取り違えてしまう、一種の苦痛だった。ーーそう、苦痛だと理解されることだけが、唯一、恥を受け容れてもらえる方法であるように明日人はどこかで感じていた。その苦痛の甚だしさの分だけ、生きるに値する生を認めてもらえる。生そのものが断念されるほどの苦痛にだけ、人は再び微笑みかける。それを身を以て証してみせる時にだけ、また涙を流してくれる!それはどこか、<楽園>に似た静けさを湛えていて、彼をその慰安に満ちた光で絶え間なく手招きし続けていた。永遠に冷たい時間の奈落に、人間のぬくもりのまぼろしを落としてみせて、追いかけるのだと背中を押す、ひとつの慈悲深い嗾し。……(456~457頁)

 自分の分人の一つが感じる恥についての考察である。分かるような気もするし、少し理解ができない部分もあるが、どことなく惹かれる箇所である。もう一度、機会を改めて考えてみたい。


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