2015年5月16日土曜日

【第444回】『アート鑑賞、超入門!』(藤田令伊、集英社、2015年)

 アートとは、「自由に眺めれば良い」と言われても困るし、「知識に基づいて決められた見方をせよ」と言われても窮屈だ。ではどうすれば良いか。本書は、そうした疑問に対してアート鑑賞の初心者である私のような人間に対して参考になる考え方を提示している。まず、作品を「よく見る」ことの効用を述べた上で、具体的にどのように「よく見る」と良いのかについて、三つのポイントを指摘している。

 ディスクリプションとは、つまるところ、作品の様態を言葉に変換する作業です。誰にでもできるごく単純な作業にすぎません。しかし、ディスクリプションは美術の専門家にとっては不可欠の作業となっており、ディスクリプションを意識して行うことによって、見落としていた部分に視線を向け、作品全体を隈なく見渡すことができるようになります。また、言葉にすることによって、漠然としか見ていなかったものをはっきり認識できるようになったり、細かいところをしっかり観察できたりする効果もあります。(26頁)

 第一に、ディスクリプション、つまり描写することが挙げられている。作品をただ単に受け身的に見るのではなく、それを自分自身で描写するという能動的な作用を伴わせるのである。アウトプットをしようとすることによって、インプットの質と量に肯定的な作用をもたらすという考え方は納得的だ。

 時間をかけてものごとと向き合っていると、初めのうちは考えもしなかったことを思いついたり、感じなかったことが感じられたりするようになります。アート鑑賞においては、色やかたちの組み合わせの妙や構図の工夫、技術の巧みさ、じんわりと浸みてくる印象、作品がいわんとしていることなど、最初のうちは気づかなかったことに気づくようになります。これは、とりもなおさず、見方が深くなっているということです。作品についての理解や感受のレベルが深まり、より作品に肉迫していることになります。(29頁)

 第二は、時間をかけて見る、という点である。シンプルではあるが、私たちがついつい軽視してしまうポイントである。日常において効率性や経済性を重んじてしまう私たちは、ともすると美術館に行ってもなるべく早く、掲示された順路を墨守して、効率的に回ろうとしてしまう。しかし、それではアートを自分自身で観賞するというゆたかな経験とは程遠いものになってしまうのではないか。そうならないように著者が勧めるのは、ざっと全体の作品を一通り見た上で、気になった作品とじっくりと対峙することである。アートとの対話を通じて、作品が語りかけてくるものが増えてくるものなのだろう。

 数を見るうえで大事なことがあります。できるだけ実物を見ることが望ましいということです。(31~32頁)

 第三のポイントは数多くの作品を見るということである。見方に自信がないから見に行かないという発想ではなく、量を増やすことによって、量が質に転化するということであろう。その際には、インターネットや画集で見るのではなく、作品そのものと実際に相対すること。そうすることで、気づくものは大きいと著者は力説している。

 こうした基本としての三つのポイントを押さえた上で、依存しすぎることがない程度に知性を用いたアート鑑賞することの有用性が述べられている。知性で見る場合に役立つ考え方について、以下から二つだけ取りあげたい。

 一つひとつの「なぜ?」をもとにして作品を見ることができますから、「なぜ?」の数はそのまま作品を見る視点の数ということになります。したがって、「なぜ?」が多ければ多いほど多角的に作品を鑑賞できることになります。(103頁)

 まず、「なぜ」という問いかけを作品に向けることが知性的な鑑賞として有用であると著者は述べる。これはディスクリプションの発展形態と捉えることができるのではないだろうか。つまり、作品じたいを描写することに留まらず、そこに作者が見出そうとした何かや作品の背景に焦点を当てて、問題意識を持って働きかける行為であるからだ。

 社会論としての意義もあります。作者の意図とは異なる見方も許容されることは、社会のダイバーシティ(多様性)の担保につながります。そして、さまざまな見方が存在することによって、意見が異なる者同士でも共生できることになります。さらには、いろいろな見方によってチェック機能が働いたり修正作用が機能したりして社会の健全性が保たれることにもなります。作者の意図に拘束されないほうが、むしろ好ましいとさえいえるのです。(106頁)

 自分自身の知性を働かせながら、自己流で鑑賞することが、鑑賞者と作者との相互作用を生み出す。そうした相互作用の連鎖が、社会としてアートを発展させていく大きな流れへと繋がる。現代は、アートに限らず、自己発信が情報技術によって広く行いやすい社会となっている。多くの人々が発信するということは、多くの人々が受信するということを意味する。私たちは、自分自身が何かをゼロから創り上げて発信するだけではなく、他者の作品を主体的に解釈してそれを発信することで、社会に多様なあり方を涵養することができる。

0 件のコメント:

コメントを投稿