2015年5月23日土曜日

【第446回】『代表的日本人』(内村鑑三、鈴木範久訳、岩波書店、1995年)

 最初に本書を読んだのは修士時代である。指導教授の学部でのゼミに出ていたら、本書が課題図書となったのである。恥ずかしながら、その際に初めて本書を読んだ。当時は修士論文の執筆で忙しくしていたのもあって、三十分程度でざっと目を通すだけに留めてしまったため、ほとんど印象に残らなかったのが正直な感想である。その数年後に、著者の『余は如何にして基督信徒となりし乎』と併せて読み直した。一度目と比べて印象に残った点が多かったようで、本には少しメモが残っているが、記憶はそれほど残っていなかった。不思議なもので、今回、改めて読み直してみると、考えさせられる箇所が多く、これまでよりも明らかに印象的である。著者が代表的な日本人として取りあげた五人の人物について、それぞれ見ていきたい。

【西郷隆盛】

 「機会には二種ある。求めずに訪れる機会と我々の作る機会とである。世間でふつうにいう機会は前者である。しかし真の機会は、時勢に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときには、機会は我々が作り出さなければならない」(42頁)

 ハプンスタンス・アプローチ(改めて、キャリアについて考える。)を想起させるような至言を、江戸城無血開城や大政奉還を実現させた西郷が述べている。重要な機会は、私たちが創り出すものである。待っていて得られる機会は、万人に平等に与えられる機会であり、自身にとって大事な機会は、自身で創り出すことが必要なのである。

【上杉鷹山】

 人は三つの恩義を受けて育つ。親と師と君である。それぞれ恩義はきわまりないが、とりわけ他にまさるは親の恩である。……
 この世に生をうけたのは親の恩による。この身体が親の一部であることを決して忘れてはならない。親につかえるときには、偽りない心でふるまうようにせよ。(75~76頁)

 思わず襟を正させられる言葉である。まず、親に対して恩義を感じること、という部分を読んで、私は恥じ入るしかなかった。その上で、親に対して偽りのない心でふるまうようにするということだから、大きなチャレンジである。

【二宮尊徳】

 部下の評価にあたっては、自分自身に用いたのと同じように、動機の誠実さで判断しました。尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。(88~89頁)

 成果主義という名の下に、パフォーマンスを評価する制度を運用している企業が最近では多い。しかしパフォーマンスだけで人を評価するべきではないことは当然であろう。そうした際に、その人がどういった動機で職務に取り組むのかを重視することは大事である。尊徳の考え方は、現代に生きる私たちにとっても有益な活きる教材である。

【中江藤樹】

 人はだれでも悪名を嫌い、名声を好む。小善が積もらなければ名はあらわれないが、小人は小善のことを考えない。だが君子は、日々自分に訪れる小善をゆるがせにしない。大善も出会えば行う。ただ求めようとしないだけである。大善は少なく小善は多い。大善は名声をもたらすが小善は徳をもたらす。世の人は、名を好むために大善を求める。しかしながら名のためになされるならば、いかなる大善も小さくなる。君子は多くの小善から徳をもたらす。実に徳にまさる善事はない。徳はあらゆる大善の源である。(122頁)

 この中江藤樹の言葉が、本書の中でもとりわけ興味深いと思えた部分である。私たちは、他者から見て分かりやすい大きな善を為そうとし、そうしたものを他者に気づいてもらえるようにアピールしたい気持ちを持つものだ。しかし、そうした気持ちを抑制し、 他者から見えづらい、小さな善を自身に心に従って積み重ねていくこと。フィードバックを得られづらい、そうした日常の小さな善の積み重ねが徳となる、と藤樹は説く。

 “学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能を持つ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。(123頁)

 他方で、学識についても藤樹は否定をしているわけではないと私には思える。たしかに、学識を得ようとして、得られた学識を他者にアピールすることは望まれる行為ではないだろう。しかし、日々の努力と研鑽によって得られた学識が、徳と合わさることで、他者や社会に貢献できる学者となれるのではないだろうか。

【日蓮上人】

 日蓮を非難する現代のキリスト教徒に、自分の聖書がほこりにまみれていないかどうか、調べてもらいましょう。たとえ聖書の言葉が毎日口にされ、それからじかに霊感を与えられているとしても、自分の派遣された人々の間に聖書が受容されるために、一五年間にもおよぶ剣難や流罪に堪えうるでしょうか。聖書のために、身命をも懸けることができるでしょうか。このことを自分に尋ねてほしいのであります。(175頁)

 まず、キリスト者である著者をしてこうした言葉を発せられることに驚く。それとともに、徳のある宗教者とは、こうした寛容で多様な生き方を理解できる人物なのではないだろうか、と考えさせられる。


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