2015年3月7日土曜日

【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)

 これほど多くのポストイットを貼った本は久しぶりである。最近では図書館の本を読むことが多く、読書録を書くために、客観的に重要であると思われる点や主観的に引用したい点にポストイットを貼るようにしている。したがって、結果的に付箋を貼る箇所が多い本とは、私にとって面白くかつ興味深い本であるということになる。他方で、ポイントが多いと読書録をまとめるのが難しくなるため、本書の場合、うれしい悲鳴をあげながら書き連ねていくこととなる。無理に全体を要約するのは勿体ないので、章ごとに以下に記していくこととする。

【序章】「アーレント」とはどういう人か?

 アーレントがその著作を通して繰り返し問題にしているのは、まさにそうした意味での「政治思想」のステレオタイプ化、平板化である(と私は主張する)。近代的な「市民社会」に生きている(つもりの)“我々”は何となく、「『我々』は前近代社会の人たちよりも、政治的意識が高く、複眼的な思考ができるはずだ」と思っている。しかし、市民権を有する国民全てが参加する現代の「政治」においては、人々の利害,関心、意見を集約するために、各種のメディアを使って情報の操作・加工が行われている。「分かりやすく」するわけである。というより、情報の操作・加工によってみんなの考えを「分かりやすい」形にまとめておかないと、物事を決定しようがない。“我々”の多くは、「政治なのでそれは仕方ないことだ」と思っている。しかし、そうした“政治”のための「分かりやすさ」に慣れすぎると、“我々”一人一人の思考が次第に単純化していき、複雑な事態を複雑なままに捉えることができなくなる。(12~13頁)

 本書は、アーレントを解釈しながら、アーレントであったならば主張しそうなことを著者が代弁するという形式で書かれている。上記の部分では、私たちが現実を「分かりやすい」ものにしすぎる傾向を持つことと、その危険性について警鐘が鳴らされている。では、半永久的に続く思考に疲れ、思考停止し、「分かりやすい」ものへと安易に逃れないようにするために、私たちはどのような態度を取ることが求められるのか。

 アーレントに言わせれば、利害のために「善」の探求を放棄してもダメだし、特定の「善」の観念に囚われすぎてもダメなのである。両極のいずれかに偏ってしまうことなく、「善とは何か?」についてオープンに討議し続けることが重要だ。政治的共同体の「善」について様々な「意見」を持っている人たちがーー物質的な利害から解き放たれてーー公共の場でお互いに言語による説得を試み合うことが、アーレントの考える本来の「政治」である。そうした意味での「政治」を通して、暴力とか感情によって相手を支配しようとするのではない、「人間」らしい関係性が培われるというのが、アーレントの独特の「人間」観である。まとめて言うと、物質的利害を超えた「政治」的な討議を通して、我々は「人・間」になるのである。(17頁)

 あるイシューに対して強く賛意を示したり、また強く反対を示す。そうした両極端な態度というものは、傍から見て「分かりやすい」ために、一見すると好ましいものとして捉えられやすい。しかし、過剰に現実を削ぎ落すということは、論点を捨象することを意味する。アーレントは、こうした「分かりやすさ」を求めるのではなく、自分自身を他者に対して常にオープンな状態にして、多様な観点に基づいた対話を行なうことを重視する。そうすることが人間の本質的な関係性のあるべき姿であるとしているのである。

【第一章】「悪」はどんな顔をしているか?

 この章では、『全体主義の起源』を紐解きながら解説が試みられている。ユダヤ人として、ナチスドイツの影響を受ける地域で生活し、収容所に連行される直前のタイミングで亡命を果したアーレントの論稿である。

 「全体主義」が、西欧近代が不可避的に抱えている矛盾を凝縮した現象だとすれば、それを克服できるオルターナティヴを一理論家が呈示するというのは、ある意味、極めて僭越な振る舞いである。それを承知しているからこそ、アーレントは敢えて処方箋らしきものを示そうとしなかったのだ、と私には思われる(35頁)

 まずアーレントは、全体主義という現象を西欧近代が内包している矛盾を凝縮した現象であると喝破する。その上で、西欧近代というグランド・セオリーの内側から、その内包する問題を根本的に解決する代替案を提示するということの困難さを認めている。だからといって、全体主義への批判を行わないわけではない。そうではなく、西欧近代が不可避的に生み出した全体主義の困難性を受け容れた上で、その現象が生じる背景を明らかにしようとしたのである。

 彼女はそこに、「同一性」を求める国民という集団が、自分たちの身近に「異質なる者」を見出し、「仲間」から排除することによって、求心力を高めていこうとする「自/他」の弁証法のメカニズムを見る。本当のところは誰を標的にしてもよかったのであるが、歴史的にヨーロッパ諸邦における迫害の対象であり続け、しかも市民社会の発展と共に、各「国民」の内部に入り込んで見えにくくなっている「ユダヤ人」は、仲間を内部から浸食する「敵」としてイメージしやすかった。(43頁)

 ナチスドイツにとって、ユダヤ人は決して多くなく、ユダヤ人がドイツ経済を逼迫しているということではなかった。むしろ、マイノリティとして社会に溶け込んでいる存在であったからこそ、ナチスドイツが純粋なナショナリズムを体現するために、マイノリティを排除しようとしたのである。異質なマイノリティを排除することにより、「我々」意識に基づくナショナリズムを高揚させようとしたのである。

 全体主義は、現実の世界の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆が、逃げ込むことのできる、文字通り「トータル(全体的)」な空想世界を構築する。そのトータルな空想的世界の中でこそ、大衆はアットホームに感じることができるのである。ただし、この空想的世界は全面的に現実世界から切り離されているわけではなく、現実をかなり歪曲した形で加工したものが、全体主義的な空想の基盤になる。(52~53頁)

 マイノリティを排除する論理の背景として、全体主義は、現実に不満や不安を抱く大衆がコミットできる物語を提供する。そうした物語は、単なる虚構ではなく、大衆を説得できるように、事実に基づいたものとなっている。虚構に基づいた物語では、大衆に対してアピールできない。しかし、そうした事実は、作為的に現実のある部分のみを描き出し、かつ歪曲して加工したものであることに留意が必要である。

 アーレントは、屍体製造工場のような収容所を、組織的に秩序立てて運用することが可能であったのは、人間を「人格」を持った存在としてではなく、製造工程に載せられている単なる物として扱い、その物が最終的にどうなろうと良心の呵責など覚えることのないメンタリティが、全体主義支配を通して形成されていたからだと示唆する。生身の人間を、工場のベルトコンベヤーに載せられている商品のように、淡々と流れ作業的に扱うことができるということは、扱う側自身も、機械の部品のようになってしまい、自らの頭で考え、判断しなくなっていることを含意している。その意味で、収容所は、人々の「人格」の個別性を破壊・抹消し、首尾一貫した世界観によって支えられるシステムの一部にしてしまう全体主義の特徴を凝縮している、と言える。(61頁)

 全体主義のおぞましい特徴の一つとして、物語の中に含まれた人々が人格を喪うことが挙げられる。当時の収容所において、ユダヤ人を抹殺したナチス政権下の人々は、ユダヤ人を人間として認識せず、機械的に作業をこなしている状態であった。抹殺を行う主体も、抹殺される客体も、人間としての人格を喪失した状況。これが全体主義の持つ一つの悲劇的な帰結である。では、どうすれば全体主義の世界観に飲まれずにいられるのか。アーレントは一つのヒントを示唆する。

 肝心なのは、各人が自分なりの世界観を持ってしまうのは不可避であることを自覚したうえで、それが「現実」に対する唯一の説明ではないことを認めることである。他の物語も成立し得ることを最低限認めていれば、アーレントの描き出す「全体主義化」の図式に完全に取り込まれることはないだろう。他の物語の可能性を完全に拒絶すると、思考停止になり、同じタイプの物語にだけ耳を傾け、同じパターンの反応を繰り返す動物的な存在になっていく。(57~58頁)

 両極端な態度に惹かれる傾向、その極地として全体主義が持つ物語に惹き付けられて思考停止を心地よく思いたくなる心性を持つこと。これらを自覚した上で、他の物語の可能性を、私たちは常に意識することが必要なのである。思考をオープンにし、多様なフィードバックを重視する姿勢は、「論語」のあり方と近いものではないか(『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年))、と私は邪推してしまうのであるが、いかがだろうか。

【第二章】「人間本性」は、本当にすばらしいのか?

 本章では『人間の条件』が解説されている。

 アーレントにとって、ナチスやスターリニズムに端的に見られる「陳腐なる悪」の本質は、多くの人を殺したことそれ自体よりも、自分たちと考え方が違う異なったものを抹殺することによって、「活動」の余地をなくし、「複数性」を消滅させようとしたことにある。「複数性」を喪失した“人間”は、他者との間で本当の意味での対話をすることができなくなるのである。(80~81頁)

 全体主義は、本来的に多様な考え方や有り様が存在するものを、一つの物語によってそこに同化させることにその特徴がある。したがって、対話という他者どうしのオープンな相互作用(『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年))が抹殺されることにその危機の本質がある。では、そうした作用に対抗するために、人間性をどのように涵養することがあり得るのか。

 「政治」に取り組むことを通して「市民」たちは、他の市民を説得するコミュニケーションのための各種の技法・知識を身に付ける。それが「人間らしさ」なのである。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「人間は政治的動物である」と述べたことが知られているが、その場合の「政治」には、「活動」を通して、各人が各種のコミュニケーションの技法、教養を磨き、「複数性」を生み出すということが含意されている。突き詰めて言えば、ポリスの「公的領域」で、「人間性=人間らしさ=フマニタス」が形成されたのである。(92頁)

 人間性とは、多様な考えの人々からなるアリーナのような領域において、オープンな対話によって身に付けられる。むろん、対話そのものだけではなく、対話をするために知識や教養から成る複数性を見出そうとすることによっても身に付けられるのである。

 アーレントがモデルにする古代のポリス的な世界では、「政治=共和制」の舞台の「表/裏」という意味合いで「公/私」の区分が為されており、各市民は「公」での「公衆」向けの振る舞い方と、「私=家」での振る舞い方を使い分けながら、「人間らしさ=フマニタス」を身に付けていたのである。(101頁)

 人間性を涵養するモデルとしてアーレントが挙げるギリシアのポリスでは、公と私の区分が為されている。公的な領域において人間性を身に付ける裏側には、私的な領域が存在していたのである。

 「社会的領域」において疎外が進行し、人間らしさが失われていくにつれ、人々は「親密圏」の中に、“人間”らしい魂の繋がりのようなものを求める傾向を強めていく、とアーレントは指摘する。「親密圏」というのは、古代的な意味での「私的領域」から「経済」的な生産機能が取り除かれて、親子や夫婦などのごく身近で、親密な人たちから成る関係性へと変貌したものである。狭義の家族だけではなく、恋人、友人などの心を許せる相手もそこに含まれる。基本的に経済的な利害関係とは独立に成立する人間関係なので、“純粋に人間的な繋がり”であるかのように思われるわけであるーー無論、家族の間には経済に起因する力関係があり、恋人や友人との関係もそうしたものから独立とは言えないが、ここで問題なのはそうした現実ではなく、共同幻想的なイメージである。(109頁)

 ポリスにおいては社会的領域で人間性が涵養されていたが、時代を経るに連れて、人間疎外が起きることで社会的領域で人間性が身に付きづらくなっているという。その結果、現代社会においては、人間らしい人付き合いが為される空間が公的領域から私的領域へと変容している。

 「プライバシー」を本質とする「親密圏」に人々が“人間”的な憩いを求める傾向をアーレントは全面的に否定的に評価しているわけではないが、そこにのめり込んでしまって、公的領域における「活動」に対する意欲を失ってしまう危険性を指摘している。(110頁)

 疎外された公的領域の代わりに、私的領域において親密性を得ようとする私たち。そのこと自体をアーレントは否定するわけではないが、公的領域において人間性を涵養しようとする努力を続けることもまた、私たちには必要なのである。繰り返すが、そうした公的領域におけるオープンな対話から身につけられる人間性が、全体主義に対抗する私たち一人ひとりの有効な態度だからである。

【第三章】人間はいかにして「自由」になるか?

 この章では『革命について』を紐解きながら、著者が解説を加えている。

 古代のポリスの特殊な環境と結び付けて「人間性」という理念の形成を論じていることから分かるように、アーレントは、ヒトは生まれながらにして素晴らしい“人間性”を有しているとも、ヒトが育ってくる過程で自然に“人間性”を身に付けるとも考えていない。「公/私」が厳格に分離している環境の下での「活動」を続けなければ、「人間」らしく振舞えるようにはなれない。ヒトとして生まれたというだけでは、「人間」の特徴である複眼的な思考をすることができるようにはならないのである。(118頁)

 まず、再確認として、ヒトは生まれながらにして美しい人間性を持っているわけではなく、公的領域におけるオープンな対話を通じて人間性を身に付けることが述べられている。こうした人間性の特徴として、単一の物語に基づく思考ではなく、複眼的な思考が挙げられていることに今一度留意したい。

 物質的な欠乏状態あるいは、暴力による抑圧状態から「解放」されたヒトが、そのことに満足してしまい、自らの属する政治的共同体にとっての「共通善」を探究することを止めてしまったら、そのヒトは「自由」だとは言えない。「共通善」をめぐる果てしなき討論の中で、「人間」としての「自由」が現れてくるのである。(125頁)

 複眼的な思考をアップデートしていくためには、何か一つのものを共通善として同定してしまいたい私たちの欲求を制御する必要がある。つまり、共通善を探究するべく、多様な他者と絶え間ない対話を続けていくことが求められる。さらに、そうしたプロセスを経て得られた共通善は束の間のものにすぎず、変化するものであることを意識し、対話を継続することが必要である。

 アーレントは、法廷においてヒトが「法」によって役割を与えられた「人格」として振る舞うことと、公的領域において各市民=活動主体(actor)が、他の市民にアピールするために、良き市民としての「仮面」を被って「活動=演技act」することは、根底において繋がっていると考える。「人格」は、ヒトが成長する過程で“自然”と備わってくるものではなく、「公衆」の目を意識した「演技=活動」において演ずべき「役割」なのである。従って、それは、公衆のまなざしに晒されることのない「私的領域」で見せる“素顔”とは、自ずから異なったものである。(140頁)

 絶え間ない対話を続けるための一つの方法として、多様な人格を演技によって示すことをアーレントは指摘する。ここで大事なことは、公的領域において示す演技としての人格を、一人の人間自身が多様に保有しているということであろう。多様な内的可能性としての人格を演じ合うのである。

 近代の哲学者が、「人間」存在の根底にある最も本質的なものを追求してきたのに対し、アーレントは「見せかけ=現れ」を重視する。「政治」の本来の場である「公的領域」は「現れの世界」である。「現れ=見せかけ=仮象」などを意味する英語の<appearance>に対応するドイツ語<Schein>には、「輝き」という意味もある。各人が、生のままのヒトとして振る舞う私的領域ではなく、「人格」という「仮面」を被って自らの「役割」を演じる「公的領域=現れの世界」においてこそ、「人間性」が「輝く」のである。(142頁)

 近代的な人間観が、人間性は本質的に内部に備わっていると考えるのに対して、アーレントは演技によって人間性が身につけられる、としている。そして、演技によって人間性を身につけていく過程は、その人間を輝かせるものであるとまで述べていることは着目するべきであろう。

 「公共性」は、発言する主体たちが、自らの正体(アイデンティティ)を「公衆」の面前に晒したうえで、自らの意見は単なるその場限りの感情によるものではなく、論理的根拠と一貫性があり、「公共善」に資するものであることを主張し、他者を説得しようとすることを通して生じてくる。(147頁)

 公的領域において演技をし合うことによって人間性を身につけていくというと、本音を隠して建前を話すと誤解を招きがちだが、そうではないと著者はする。つまり、発言者は自分自身を晒した上で演技をすることが求められるのである。さらに、そこで演技をして主張する内容は、論理的一貫性に基づいて説得しようとする態度が必要なのである。

【第四章】「傍観者」ではダメなのか?

 この章は、急逝により未完の三部作となってしまった『精神の生活』について述べられている。

 第一部「思考」は、彼女の師であるハイデガーの時間論と、小説家カフカ(一八八三―一九二四)の寓意的アフォリズム集『彼』を参照しながら、「思考」が「現在」と結び付いていることを示唆して終わっている。「思考」が「現在」と結び付いているのは何故か、というのは本当のところ簡単には説明しにくいが、敢えて一つの文で要約すると、「私が思考しており、かつ存在している」と確実に言えるのは、「私が現に思考しているこの瞬間」だけだからである。(176頁)

 思考している自分というものを考えた時に、将来における存在性と、過去における存在性とはふたしかであり、現在と思考とが結びつく、とアーレントは考えた。さらに彼女は、第二部の「意志」において以下のように論を進める。

 「自由意志」が実在しないと考える場合でも、実在すると考える場合でも、“意志の主体”としての「私」はそもそも何なのか、「私」は何によって“私の意志”を定めているのか、よくわからなくなってくる。それが「自由という深淵」である。(184頁)

 現在において考える私の意志とは何か。そこにアーレントは「自由の深淵」を見出している。この後の第三部を執筆している途中で彼女は急逝してしまうのであるが、著者は第三部を、彼女が生前に行なった「カント政治哲学講義」が該当するとして論を進めている。

 我々は事の善/悪という、一見すると極めて主観的な価値についての「判断」を行うに際して、自分と同じ共同体を構成する他者たちの視点を取り込んでいる、ということが言えそうだ。善/悪の判定の根底に、他者たちの過去の考え方や価値判断が潜んでいるというのは、ある意味、至極当然の見方だろう。そうした「過去」を背景にした「判断」が、私がこれから行動を起こそうとするにあたり、自分の取るべき立場についていろいろと「思考」し、最終的に自らの「意志」を形成するに際しての基準になる。そういう形で、「思考」や「意志」は、「判断」と繋がっているのである。「判断力」は、「過去」と「現在」と「未来」を、そして個人の「精神の生活≒観想的生活」と「活動的生活」を結ぶ、極めて重要な能力として位置付けることができる。(189頁)

 自由の深淵の背景には、他者の視点が取り込まれているという指摘は重たい。自由とは、自分の視点で好き勝手に考えられるということではなく、他者を意識し、他者の視点を取り込んでいる状態を指すのである。ここまでの議論をまとめて、アーレントとカントによる政治哲学のテーゼを以下のように要約している。

 「共通感覚」と、それに根ざした「判断力」を全面的に開花させるには、各人がいかなる物理的制約も受けることなく、自由にコミュニケーションすることができる「公的空間」、更には「公的空間」を舞台裏から支える「私的領域」をも備えた「政治的共同体」が必要なのである。それが、(仲正流に再構成した)カント=アーレントの政治哲学の中心テーゼである。[判断力→共通感覚→拡大された思考様式→活動→公共性]というラインで、カントの三批判とアーレントの政治哲学、観想的生活(精神の生活)と活動的生活(政治的生活)とが繋がっているのである。(203頁)

 直接的には表舞台に加わらない、「観客」が存在し、様々な視点から問題を注視していることによって、「政治」に「複数性」がもたらされるのである。私個人にとっての必然性もないのに、特定の立場にコミットして、無理に積極的なアクターになろうとする必要はないし、アクターになろうとしない人を、安易に卑怯者呼ばわりすべきでもない。(211頁)

 著者は最後にこのように述べ、表舞台に出てこようとしない観客という立ち位置を肯定的に捉える。主体者ではない観客という存在によって、公的領域における複数性が担保されるからである。対案を示さなければ批判をしてはいけないと強弁する人物の言い分も分かるが、批判精神を持った観客という存在は、私たちの社会にとって必要な存在なのではないだろうか。


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