2015年1月31日土曜日

【第409回】『老子(2回目)』(金谷治、講談社、1997年)

 道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。(1 道の道とすべきは)

 老子における最重要命題は道であろう。この最初の章で述べられる箇所において、道とはイデアのように理念型があるものではなく、故に表現することができず、また変化するものであることが述べられる。目指すべきものではあるが、変化するものである、という反語的な老子の表現は、道に関する次の二つの箇所でも続く。

 道は沖しきも、これを用うれば或(又)た盈たず。淵として万物の宗たるに似たり。(4 道は沖しきも(「道」のはたらき(1))

 大成は欠くるが若く、其の用は弊れず。大盈は沖しきが若く、其の用は窮まらず。
 大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁は訥なるが若し。(45 大成は欠くるが若く(中空の妙))

 道とは、満ちることなく空っぽな存在であるからこそ無限のはたらきができる、とある。この逆説もまた、考えさせられるものであろう。現代社会においては、満たすことが重要であり、欠落していることは問題であると見做される。しかし、コップに満ちた飲み物を想像すれば分かるように、満ちていれば他のものを足すことはできず、持ち運びにも苦労する。失われれば喪失感をおぼえるために、保持しようと躍起になり、自分で自分を苦しめかねない。このように考えれば、老子が提案する道という存在もまた、一つの考え方としてゆたかなものであるように思えないだろうか。以下からは、こうした道という説明できない概念を、他の対象をもとにしながら説明されている部分を四つほど抜き書きしていきたい。

 上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず。衆人の悪む所に処る。故に道に畿し。(8 上善は水の若し(不争の徳(1))

 第一は水である。「道に畿し」とまで書かれるほど、老子では道を説明する概念として水がよく用いられている。他者と争うことなく、他者よりも低い位置に居るにも関わらず、他の存在の生命を支える存在。自分自身の存在を主張するわけではなく、常日頃においては目立たない存在であるにもかかわらず、なくなればその存在のありがたみを思い出される。

 人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
 足るを知る者は富む。(33 人を知る者は智(外よりも内を))

 第二は、「足るを知る」という考え方である。前段にあるように、私たちは他者のことを気にし、他者と比較することに意識が傾注してしまう。しかし、そうではなく、自分自身を眺め、自分自身を知ること。自分の内側を眺めることで、自分自身の現時点における有り様を知り、自分自身の内側を通じて、自分自身を取り巻く環境や接してくれる他者に感謝すること。

 下士は道を聞けば、大いにこれを笑う。笑われざれば、以て道と為すに足らず。(40 上士は道を聞けば(旧第四十一章)(「道」のありかた(3))

 第三は、道を目指す過程での他者との関係である。自分の信念を否定されると嫌な気持ちになるものだろう。少なくとも、私はそうだ。しかし、大事にしている価値観に基づいた言動であればあるほど、伝わらない人には伝わらないものだ。さらに悪いケースでは、正論を吐くことが「下士」にとっては攻撃と見做され、不要な反発を招いたり、理解されずに笑われてしまうこともあるだろう。そうであれば、ここで述べられているように、取るに足らない人物に否定されればさるほど、自分自身の有り様が道を目指したものになっている、と考えると精神衛生上も良いだろう。

 知りて知らずとするは上なり。(71 知りて知らずとするは(わかったと思うな))

 第四は、知るということである。自分が持っている知識をもとに他者を見下したりしないことはもちろんのこと、安易に理解したと捉えないこともまたここでは含意されていると考えるべきだろう。


0 件のコメント:

コメントを投稿